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線路越しの和解
満州開拓青少年義勇軍
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第二次世界大戦は多くの悲劇を生み、今もなおその傷跡に苦しんでいる方、また忘れがたい心の傷をおわれた方がたくさんおられます。



中国残留孤児問題もその中のひとつであり、いわゆる「孤児」を生んだ原因のひとつに「満州開拓団」の存在がありました。

一般の開拓団員が 22 万人、そして当時 15 歳前後の少年たち、約 10 万人が「満蒙開拓青少年義勇軍」として、国策のもと、満州へ渡りました。

開拓団そして青少年義勇軍がたどった悲惨な結末や、満州移民政策の是非を論ずるには、あまりに問題が大きく、またすぐれた書籍や WEB サイトがありますので、そちらをご覧いただくとして、ここでは旧青少年義勇軍の旧地再訪の旅に同行した時のできごとを書きたいと思います。



当時の青少年義勇軍は出身地ごとに中隊編成され、茨城県の内原訓練所に入所、そこで厳しい訓練に明け暮れた後、満州に渡りました。

この出身地ごとの中隊は、通称「郷土中隊」と呼ばれ、統率者である中隊長の名前を隊名にすることが多かったようです。

○○県△△中隊、というようにですね。



15 〜 6 歳といえば、現代でも血気盛んな年頃であり、国策の美名に突き動かされ、純粋な使命感に燃えているだけに、意気軒昂たるものがあったことでしょう。

そうした少年たちがひとところに集められ、厳しい毎日を送るわけですから、家族から離された寂しさや、満州での不安、焦燥感なども手伝い、中隊同士のいざこざは日常茶飯事であったようです。



1989 年 9 月、私が添乗員として同行した A 県 H 中隊と H 県 M 中隊も、そうした経験をもっていました。

そして何の因果か入植した満州の村が隣どうしで、村境の鉄道線路で殴り合いどころか刃傷沙汰にまで及んだ、とのこと。

通常は内原での訓練が終了し、満州に渡った後はすぐに入植地に向かうケースが多かったようですが、この A 県 H 中隊は渡満後も訓練所に入れられ、さらに厳しく訓練をされました。

つまりは札付きの中隊だったわけですね (^^;



実は、 A 県 H 中隊の皆さんとはこれで 2 回めの旅行でした。

初めての時は、満州側の訓練所である、黒龍江省一面坡特別訓練所という恐ろしげな名称の訓練所跡や、入植していた村などに行き、皆さんから見れば孫のような年の私を非常にかわいがってくれました。



旅行中、さきほどの H 県 M 中隊との話しを聞かされ、日本に命からがら帰ってきた後もいがみあいは続いていた。

しかし戦後 50 年経とうとしている今、物故する人たちも多く、ここらで M 中隊とは手打ちをしようではないか、という声があがっていることを聞かされました。



手打ちをしようという声が出るまで、じつに 50 年近くもかかったわけですが、 50 年間ずっといがみあってきたわけではなく、生き延びることだけに必死であった時代を生き抜き、ようやく旅行に出る余裕が出てきた今だからこそ、浮かび上がってきた声なのかも知れません。

両中隊の間では、すでに基本的なプランはできあがっていたらしく、あとは具体的な日程を調整するだけでした。



忘れる水
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そして出発の日。

空港では両中隊からの参加者が全員揃いましたが、やはり照れくささや多少のわだかまりも残っているのかも知れません。

自分の中隊だけで固まってしまいます。

本来、添乗員である私が両者の仲を取り持つようにたちまわるべきなのでしょうが、この皆さんが持っている重い経験や、同じ日本人でありながら刃傷沙汰にまでなった相手との和解という目的を考えると、私如き若輩者が軽軽に動くよりは、自然の流れに任せようという気になっていました。



中国旅行の食事は、当然中華料理になるわけで、中華料理とはご存知のように丸テーブルでとります。

この丸テーブルというのが実にいいんですね。

自然と向かい合うし、大皿の中国料理をそれぞれが取り分けたり、酒をつぎあったりして、やはり一体感が生まれてきます。

この旅行も、両中隊代表者の絶え間ない気遣いもあり、同じ中隊同士で固まらないように、自然に皆さんが座り、和解の日に向け土台ができあがりつつありました。



一行は黒龍江省の省都であるハルビン市に到着、ここからふたつの中隊はそれぞれの旧地に向かい、その後和解の地で合流する日程でした。



ハルビンからの分団行動に際して、 A 県 H 中隊には私が、 H 県 M 中隊には大学を卒業したばかりだという女性の現地ガイドが同行することになりました。

見るからに頼りない、おちゃらけガイドで、脳裏に一抹の不安がよぎりましたが、まぁ 2 〜 3 日程度のことであるし、ハルビンでの受け入れ先である現地旅行社のスタッフもしつこいほどブリーフィングをしていましたので、このまま進めることにしました。

日程では M 中隊がその日の夕方にハルビン発、私が同行する H 中隊が同日の深夜にハルビン発というものでした。



ホテルから M 中隊を見送り、私は H 中隊の皆さんと夕食を取っている時、現地旅行社のマネージャーが青い顔をしてやってきました。

新米ガイドの手際が非常に悪く、また列車の発車番線が変更されたことも手伝い、結局予定していた列車に乗り遅れてしまい、こちらに帰ってくる、とのこと。



「やってくれた…」



とにかく急いで対策を立てねばなりません。

時刻表と首っ引きで代替案を考え、いずれにしても今日の再出発は無理なのでホテルを探し、現地でのスケジュールの組み直し、 H 中隊の合流スケジュールの訂正、それらを現地旅行社のスタッフと手分けして行い、 M 中隊がホテルに戻ってきたら、まずお詫びをして代替案を提示しなければなりません。



ところがなにひとつうまく進みません。

ひとつには中国の列車予約が日本ほどシステマティックではないということ。

その場で空席がわかるなんていうのは望むべくもありません。



そしてその日はホテルも満室で、しかも最悪なことに M 中隊の皆さんの、スーツケースなどの託送荷物だけは予定通りの列車に積み込まれてしまったようなのです。



八方ふさがりの中で、 M 中隊がホテルに舞い戻ってしまいました。

新米ガイドが泣きそうな顔でバスから降りてきます。



この時の M 中隊の皆さんの反応は、予想以上に激しいものでした。

まぁ無理からぬことではあります。

これで私が深々と頭を下げ、今晩はこちらのホテルをご用意しております、皆さんのお荷物はすでにお部屋に入れてあります、明日からのスケジュールはこのようにしてみましたがいかがでしょうか、と矢継ぎ早に対応していれば少しは怒りも収まったのでしょうが、なにひとつできていない状態だったわけですしネ。

さすがに罵詈雑言とまではいきませんが、それに近い言葉を浴びせられました。



しまいには

「明日、日本に帰る」

と言い出す人もでる始末。



予定では夕飯は列車内で取ることになっていたため、とりあえずレストランに一行を案内、まずは食事をしてもらうことにしました。



私だって考えて、行動する時間が必要ですから、そうそうお客さんにへばりついて謝ってばかりもいられません。

改めて現地スタッフに檄を飛ばし、列車とホテルの確保、そして託送荷物の行方を追わせました。

結果、列車は何とか翌日のものが取れ、ホテルもこの日の深夜にチェックイン予定であったロシア人一行の部屋を横取り、スケジュールも組み直せました。



あとは託送荷物です。

本当に列車に積み込まれてしまったのなら、もう為す術はありません。

出迎える予定の現地旅行社に頼んで引き取ってもらい、 M 中隊の皆さんが到着するまで保管してもらうより方法がありませんが、ほんとうにそうか? 

私は未だに荷物はハルビン駅のクロークかどこかに残されているような気がしてなりませんでした。



そこで現地スタッフの一人に事情を話すと、私が行きましょう、という返事。

あなた(私のことです)はここに残ってお客さんと一緒にいてください、と言う。

確かに私も H 中隊の皆さんと数時間後には出発しなければならないわけで、そうそううろうろもできないので申し出を受けることにしました。

スタッフの彼はドライバーを連れ、駅へ向かおうとしています。その時、彼のしゃべる早口の中国語が私の耳に飛び込んできました。



「あの日本人がうるさいからよ、ちょっとそこらをひとまわりしてくれよ。それでやっぱり荷物はありませんでしたって、言えばいいからさ」



生来温厚な私ではありますが、この時ばかりはそいつの襟髪ひっつかんで締め上げ、

「俺が行く。てめえはここで俺が帰るまで待ってろ」

とか、何とか、そんなことを言ったような記憶があります(笑)



ハルビン駅に到着。

事情を話し託送荷物の保管庫に入れてくれるように頼み込むものの、まずは拒否。

あーでもない、こーでもないと理屈を並べ、やっと許可は得たものの、今度は保管庫の鍵がない、担当者が持って帰ってしまった、というお決まりのことば。

それなら鍵は弁償するから無理矢理こじ開ける、と車からスパナやらペンチやらを持ってくると、ちょうど今担当者と連絡が取れました、今こちらに向かっています、と、これまた予想通りのお返事。



無事、鍵を開け中に入りました。

すぐに目に入ったのが、当時私が勤めていた旅行会社の色鮮やかな荷札でした。



駅員曰く、取りに来ないのでこのまま保管していた、とのこと。

荷物の個数を数え、すべてあることを確認し、ホテルに持って帰りました。



M 中隊の皆さんの部屋に持っていくと、やけ酒でも飲んでいたのでしょうか、全員が車座になって酒瓶やらが散乱しています。

「うわ、まずい時に来ちゃったな…」

と思いましたが、荷物がみつかり、持ってきた旨を告げると、荷物はすっかりあきらめていたのでしょう、思わぬ荷物の出現に歓声があがり、特に奥様たちからは一際大きな声があがりました。

そして M 中隊の団長さんから、



「もう今までのことは忘れる水を飲みましたので、我々の気持ちはもとのままです。あなたの誠意に感じ入りました。ご苦労様でした。一杯飲ってください」



と。

うれしかったですね。

これは本当にうれしかったです。



そして一番私のことを非難していたお客さんから笑顔で日本酒をつがれ、一気に酒を飲み干しました。

しかし酔っぱらってもいられません。

私が同行する H 中隊の出発時間が迫っているからです。

私は合流地での再会を約し、 H 中隊と皆さんと駅へ向かいました。



故地へ
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合流地は吉林省 D 市。

そこからバスで 30 分ほど走ったところにある D 鎮という小さな集落が目的地です。

M 中隊の皆さんより一足早く D 市に着いた私と H 中隊の皆さん。

私はホテルの玄関で M 中隊を乗せたバスが到着するのを待ちました。



待つことしばし、にこにこと脳天気な笑顔を浮かべた新米ガイドが先にバスから降り、 M 中隊の皆さんも降りてきました。



入植地では旧兵舎跡や当時使っていた井戸が今も使われていたことなどを伺い、まずは良い旅であったことを告げられました。

その日の夕食は、いよいよ和解の日を翌日に控え、 M 中隊も H 中隊もにこやかにテーブルを囲み、それぞれの入植地での訪問の成果や、当時の思いで話に花が咲きました。



翌朝。

バスは早朝の D 市を後にし、 D 鎮へと向かいます。

昨日の雰囲気そのままに、バスの中は和気藹々のムードにあふれ、やがてバスは D 鎮に到着しました。

D 鎮では鎮政府(村役場)の人と、残留孤児のひとりであり日本国籍が確認されながらも、私の生活の場はもはや中国だ、と帰国をしないで D 鎮にとどまっている日本人女性 N さんが迎えてくれました。



半世紀近くが過ぎ去った中、青春の痕跡をさがす時間が始まりました。



「おい、あれは兵舎じゃないか」

「そうだ、するとこっちに本部があったはずだが…」

「いや、あれが兵舎なら本部は向こうだ。そっちにあるのは作業場だろう」



皆、記憶の糸をたぐり寄せるように、地面に地図を書いたり、この旅行に参加できなかった仲間から託されたメモなどを頼りに、当時の面影を残すものをひとつでも探し当てようと懸命です。

村の老人たちにたずねてみたり、地元の N さんから変遷の様子を聞いたりする中で、ぽつぽつと当時の建物らしきものが見つかってきました。



感無量なのでしょう。

全員ことばもなく立ち尽くし、ただただ吹く風に身を任せているだけでした。



そしてふたつの中隊を分けていた線路跡が見つかりました。

すでに路線は廃止され、線路もなくなっていましたが、草むらの中、一条に走る線はすぐにそれとわかるものでした。

どちらからともなく、互いの入植地があった方に別れ、線路跡を隔てて両中隊が整列しました。

背筋を伸ばし、直立不動のままで整列したその姿は、まさに純粋な使命感に燃えた、当時の少年の姿そのものです。



H 中隊の団長があふれ出る涙を抑えつつ、絞り出すように口を開きました。



「 M 中隊の衆、すまんかった」



この一言を言うために、実に 50 年という長き歳月が必要でした。



H 中隊も、 M 中隊も目頭を抑えうつむいていましたが、やがてそれは全員の慟哭へと変わっていきました。

団長同士が線路越しに手を差し伸べ、たがいに握手を交わしたのを皮切りに、全員がそれぞれと握手をし、すまなかった、すまなかったと繰り返していました。

その様子から H 中隊が加害者側であり、 M 中隊に被害者が多かったことがわかりましたが、 M 中隊の皆さんもただただ涙を流しながらうなづき、亡き戦友の名を呼ぶのみでした。



慰霊祭が始まりました。

携えてきた日本酒やたばこ、お菓子や線香、 D 市で調達した生花を供え、ひとりひとりがうずくまるように線香を手向けると、それまで穏やかに吹いていた風が、まるで戦友の魂をここに連れ戻そうかとするように、強く吹きはじめました。



線路の土を思い思いに袋につめ、 50 年間思い続けてきた慰霊祭が終りを告げました。

皆さんの顔から、心残りであったことをやっと成し遂げたという思いがうかがえ、その日の夕食は互いに酒を酌み交わし、 50 年間のわだかまりが雲散霧消したような、そんなひとときでした。



私は日本人です
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翌早朝、私の部屋の電話が鳴りました。

出てみると、お客さんからです。

男性の中国人が部屋にたずねて来たが、日本語がまるでしゃべれないので、なんだかさっぱりわからん、ちょっと部屋に来てくれないか、というものでした。



部屋に行くと、ちょうどお客さんと同年代の貧相なおじさんがベッドの端にちょこんと座っています。

中国語で話しかけると、とたんに目を輝かせ、堰を切ったようにしゃべり始めました。



「私は日本人だ。戦争で取り残された残留孤児なのだ。日本人が来ると聞いて、矢も立てもたまらずこうしてやってきてしまった」



この当時から孤児を名乗るニセ残留孤児はたくさんいましたが、この人は目に涙をため、まなざしは真剣そのものです。



ふと足元を見ると、履き古した革靴がきちんと揃えて置かれていました。

靴を履いてください、と私が言うと、いや、私の靴は汚れているから、と履こうとしません。



欧米人や中国人はホテルの部屋では決して靴を脱ぎません。

日本人は割合すぐに素足になってしまいますが (^^;

もちろん、このことだけで断定することなどできませんが、私には本当の残留孤児のように思えました。



このおじさん、名前を F さんといい、詳しい来歴は記憶にありませんが、とにかくソ連侵攻の混乱の中で両親からはぐれてしまい、ここの中国人養父母に育てられた、ということでした。

F さん自身、何度も厚生省や北京の日本大使館に日本への帰国を訴え続けましたが、期待していたような返答を得ることはできず、今日に至ってしまったとのこと。



お客さんたちも、一歩間違えば自分たちも同じような境遇になりかねなかっただけに、真剣に F さんの訴えに耳を傾けていましたが、自分たちが力を貸すにはあまりに問題は大きく、それだけに軽々しい返事はできません。

F さんも、この人たちに自分の帰国に尽力してもらおう、という気持ちはなく、ただ日本人と話がしたかった、日本人に会いたかった、そして自分のような同胞がいることを知ってもらいたかったと涙ながらに話しました。

そしてお客さんたちの申し出で、この日は F さんも皆さんと行を共にすることになりました。



その日一日、私は徒然なるままに F さんと話をしました。

お客さんとの会話には通訳が必要ですが、下手ながらも多少の中国語をしゃべる私に、 F さんは滔々と今までのことを話し、私はそんな F さんに大きく心を動かされました。



できることであれば、私も F さんのために何かしたいと思いましたが、やはり軽々に動くことは好ましくありません。

私は名刺に自宅の住所と電話番号を記して F さんに渡しました。

もし日本に戻ることができたらぜひ連絡をください、と F さんに言うと、ありがとう、ありがとうと何回もお礼を言い、きちんと自分の財布にしまいました。



重い旅が終わりました。

それから何回となく満州開拓団のツアーには同行しましたが、これほど重い旅を経験したことはありません。

ご縁があったのか、 H 中隊の皆さんとは、それから数年後にもう一度ご一緒する機会がありました。



一本の電話
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私は仕事の合間を見て、厚生省中国残留孤児問題等支援室をたずね、 D 鎮で会った F さんのことを話して、率直に何か対策はないものかたずねてみましたが、答えはやはりつれないものでした。

残留孤児を名乗り、何とか豊かな日本に行こうと画策する中国人が後を絶たず、政府としては身元の確認によりいっそう慎重にならざるを得ない、と。



厚生省の言い分は十分に理解できますが、戦後 50 年余りが過ぎようとしている中、いったいどれほどの孤児たちが、その身元をはっきりと証明できると言うのでしょうか。

私は厚生省の関係機関に行き、現状を聞いたこと、現時点では帰国の可能性は皆無ではないにしろ、非常に難しいと思わざるを得ないこと、残念だが私のできることはここまである旨を記した手紙を送りました。



F さんから返事がきました。

縷縷、謝意が述べられていましたが、もう私も若くはない、いったいいつまで待てばいいのか、日本人である私をなぜ日本政府は救ってくれないのか、と苦渋に満ちた文面であり、正直、私には励ます言葉さえ見つからず、ただただ希望を捨てずに、としか返事が書けませんでした。

それから何回か手紙のやりとりが続きましたが、再び D 鎮を訪れるチャンスはめぐってこず、いつしか手紙のやりとりも絶えてしまいました。



この時の添乗から早いもので 15 年余りが過ぎていきました。

私は当時勤めていた旅行会社から現在の会社へ転職しましたが、 H 中隊の皆さんとは、それからもおつきあいが続き、一度は A 県にご招待いただき、過分な饗応をいただきました。



ある日、妻より

「たどたどしい日本語で電話があった、電話番号を言っていたけど」

と言われ、訝しく思いながらもその電話番号に電話をしてみたところ、思いがけないことに、まったく思いがけないことに電話の主は F さんでした。



2 年前にやっと日本人であることが認められ、永住帰国したとのこと。

すぐに連絡をしたかったが、私の名刺や手紙を中国に置いてきてしまい、前回戻った時にやっと見つけて電話をしたのだ、と話してくれました。



よく電話をくれたものだと、その時はまったくうれしかったですね。

近いうちに遊びに来てくれ、と現在の住所を聞くと、何と私が以前住んでいた街のすぐそばであり、私もよく知っているところでした。

やはりこれも何かの縁なのでしょうか。

なかなか時間が取れず、まだおじゃまはしていませんが、近いうちに会いに行こうと思っています。



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文中、幾度となく 「満州」 という語句を使いましたが、もちろん現在は使われていません。

現在は 「旧満州」 と表記するのが一般的ですが、ここでは敢えて 「満州」 と表記しました。もちろん何ら他意はないことを付け加えておきます。
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