ƃǝlʇooq

ロードバイク・アメリカンフットボール・音楽・酒
TC ブルース
Words:kota

Music:どなたか曲つけてください(笑)



客が白と言えば白と言い

黒と言えば笑顔で黒と言う

そう私は添乗員

自分を殺しプライドも捨て

パスポート片手に今日は中国明日はアメリカ

そう私は添乗員

小旗ふりふりビジネスバッグたすき掛け



日本しか知らぬ客連れて

立ちはだかるは悪夢の現地事情

そう私は添乗員

妻子にゃ見せれぬこの姿

スーツケース運んで腰痛めバスのドアに指はさむ

そう私は添乗員

士農工商けだもの畜生添乗員



Oh Baby, please don't cry

Where are you goin'? 添乗員

What are you doin'? 添乗員



夕べは徹夜でつきあって

今朝は早よからモーニングコール

そう私は添乗員

ベッドはいらないイスさえあれば

瞬間速攻熟睡数分大復活

そう私は添乗員

こんな私に誰がした されど泣かぬは最後の意地か



Oh Baby, please don't cry

Where are you goin'? 添乗員

What are you doin'? 添乗員



Oh Baby, please don't cry

Oh Baby, please don't cry any more
| T/C | 11:13 | comments(0) | - |
添乗奇譚
あちこち添乗に行ってますと、いろいろな目に遭います。

楽しかったことや苦労したこと、悔しかったり、悲しかったりしたこともあったわけですが、時には 【恐い思い】 をしたこともあり、ここではそんな経験をちょびちょび書いてみたいと思います。

ちなみに私はガキのころから、いわゆる 【霊感】 がやや強い方らしく、これまでも結構な体験もしてます。

そんなんもとりまぜて、ではいくつか…

  

  

  

巻之一●青い少年

拙宅からリンクをはらせていただいている、こちらは現役添乗員 MoMo さんのサイトに投稿して掲載していただいたものです。

  

場所は中国の古都・西安。

誰もが知ってる有名ホテルでのことです。

時は、えー 忘れちまいました。

たぶん私がまだ駆け出しのころだったと思います。

  

一日が終わり、ベッドに入るや否や寝てしまった私。

ふと息苦しさを覚え、目を覚ますと、体がちっとも動きません。

「ん… あれ?」

全然動きません。

「あんだよー ったくよー どーなってんだよー」

さっぱり動きません。

「これが金縛りってやつかあ?」

「ひ… か、金縛り…?」

バカみたいですけど、自分で言った【金縛り】という言葉に、現実に戻り、

「こここ、これが金縛り…?」

と、いきなり恐怖感に襲われました。

  

そして、体が動かないばかりか、何かがのしかかって来るんですね。

私は仰向けに寝ていたのですが、私の両手首を誰かがしっかりと握りしめ、全身を私にあずけるかのように、のしかかってきます。

「子供みたいだな…」

私の両手首を握りしめている手が、小さいんですね。

しかも冷たい。

すごく冷たい手です。

  

私は 175cm / 80kg ですので、体格的には小さい方ではありません。

その私の上に、小さく冷たい体の子供が渾身の力を込めてのしかかってきます。

子供の息吹が聞こえてくるかのような錯覚にとらわれました。

本能的にやばいと感じた私は、贅肉に覆われた中、わずかに残された筋肉を、レッドゾーン突撃フルパワーで起動し、冷たい子供をはねのけようとしました。

その時、往年の猪木やらスタン・ハンセンやらの姿が脳裏をよぎり、

   

だああああああああああああああああああああああああああああ

と雄叫び一閃(笑)

  

ぷよぷよ脂肪のぬるま湯の中で惰眠をむさぼっていた、ほんの一握りの筋肉が動き始めました。

  

吸気! 臍下丹田に大地の気を込めー (ω・´ )━━(・ω・´)━━!

混合! 体内にふつふつと滾る気合いをあわせー (`・ω・´)シャキーン━━━ !!

燃焼! 一気にパワー爆発ううう ヾ(;゚曲゚)ノ オラーーー!!!

排気ぃぃ… ( ´・ω・)━━( ´・ω)━━ ハァハァ…

って、 4 ストかいヾ(^^; マタ、ソンナイイホウニイウ…

  

と、とにかくそんなんで私は満身の力を込めて、その子供をはねのけ、ベッドから飛び起きました。

  

私の目の前に子供が立っていました。

10 才に満たないぐらいの、前髪は短く刈り込まれており、青いセーターのような、Tシャツのようなものを着ています。

   

そして片手にはにぶく光る包丁のようなものを持っていました。

思わず息を飲んだ瞬間、

その少年は消えていました。

  

私は今、自分にどういうことが起きたのか把握できず、しばらくそのまま立っていましたが、ふと両手首を見ると、

ご自分の手首を、もう片方の手でしっかりと握りしめてみてください。

指の跡が残りますよね。

そうした跡が、私の手首にしっかりと残されていました。

ところどころ青あざになってます。

そしてトランクス一枚で寝ていた私の体には、あちこちに切り傷やみみず腫れ、爪で引っかかれたような跡がありました。

  

それを見た途端、私は瘧のような震えに襲われ、立っていられなくなりました。

そのままうずくまり、毛布を抱えて部屋の隅に這っていきました。

そして毛布にくるまって、一晩中がたがた震えていたのを覚えています。

   

あの子は誰なんだ?

なんで俺はキズだらけなんだ?

誰がやった?

あの子か?

そういえば包丁のようなものを持っていた

あれで俺をキズつけたのか?

また来るのか?

来たらどうしたらいいんだ?

俺は殺されるのか?

なんで?

なんで俺は殺されなきゃいけないんだ?

  

東の空がほのかに明るくなってきました。

この時ほど、太陽の光をありがたく、また力強いものだと感じたことはありません。

私はうずくまっていた部屋の隅から立ち上がろうとしましたが、部屋の隅が私の安住の地というか、ここに座っていたから大丈夫だったんだ、という妙な感触を感じました。

   

しばらく座っています。

だいぶ明るくなってきました。

震えもおさまった体を起こし、テーブルに置いてあったタバコに火をつけ、深々と紫煙を吸い込みました。

テレビをつけます。

朝のニュースを早口のアナウンサーがまくしたて、コマーシャルになりました。

いつもと変わらない中国の脳天気コマーシャル。

いつもと変わらない日常がそこにありましたが、私はその日常から隔離され、他の場所から冷ややかな目でそれを見ているような感慨を覚えました。

   

俺は今、どこにいるんだ?

  

外はすっかり明るくなっています。

早起きの中国人たちがジョギングをしたり、太極拳をしたりしている姿が、あちこちに見えます。

二本めのタバコを吸い終えた時、私はすっかり元の世界に戻ってきたような感覚を覚えました。

  

熱いシャワーを浴びました。

いきなり熱いお湯を浴びた体中のキズから、きしむような悲鳴があがりましたが、かまわず浴び続けます。

着替え、またタバコに火をつけ、私は今日の添乗をこなすべく、部屋から出ていきました。

   

その後、そのホテルには何度か泊まりました(爆)

さすがにいやなものを覚えましたが、でもこんなことがあったのは、これっきりです。

   

   

   

巻之二●「 Sir 〜」

アメリカでのこと。

皆さんはアメリカっていうと、どんなイメージを持たれますかね。

 

自由の国

広大な大地と雄大な自然

人種の坩堝

西部劇

本家ディズニーランド

銃社会

世界の警察きどり

   

どれも正解でしょうね。

  

私は今まで仕事でしかアメリカに行ったことがありません。

初めて添乗でアメリカに行かされることになった時。

うちの会社には中国はよー知らんけど、欧米のことならよく知ってるよー というのがいっぱいいまして、まぁそーゆー人の方が普通なんですけど、そんな人から色々なレクチャーを受けました。

んで、やっぱり注意しなきゃ行けないのは、治安が悪いというところですよね。

自分が遊びに行くならともかく、添乗員ということはお客さんを連れて行くわけで、自分のことはともかく、お客さんの安全に気を配らなきゃいけません。

   

で、アメリカの場合は、

「こっからここまでは安全。こっから向こうはアブナイよ」

みたいにきっちり分かっちゃうことが多いです。

 

例えば、ロスアンゼルス。

日系人社会では非常に大きい規模のリトル・トーキョー。

リトル・トーキョー内は非常に安全です。

常に警官がふたり組ぐらいで巡回してますので、真夜中でも全然平気です。

しかし、道路一本隔てると、ヒスパニック系の人が多い倉庫街があるのですが、この辺はヤバイらしいです。

だから

「この道路からこっちは安全だけど、あっちはヤバイですぜ」

ということになるんですね。

  

そんなのはいっぱいあります。

ワシントン DC のノースウエスト地区以外はアブナイとか、ボストンの地下鉄オレンジラインのチャイナタウンより南とか、デンバーでもそんなのがあったし、一風変わったところでは、サンフランシスコのゲイ・ストリートとか。

  

ゲイ・ストリート自体は別にアブナイということはないと思います。

ずいぶん前に話題になった 「ツインピークス」 というドラマと同名の丘がサンフランシスコ郊外にあります。

ここがドラマの舞台になったわけではないのですが、サンフランシスコではゴールデンゲイトブリッジやフィッシャーマンズ・ワーフと並ぶ観光地になってます。

で、このツインピークスから市内に入ってくると、やたらとベランダに鉢植えが飾ってあるアパートがあったりとか、いろいろな色のシマシマ模様の旗がかかってたりする一角にでます。

ここがゲイ・ストリートです。

とってもきれいです。

車道の中央分離帯にはヤシの木が植えられたり、おっしゃれーな感じのレストランとかあったりして。

何でも、自分たちの街は自分たちできれいにしよう、とゲイたちが金を出し合って環境整備をしているとか。

で、ヤシの木の終わるところでゲイ・ストリートも終わってまして、非常にわかりやすいです。

  

ただいくらなんでも、真夜中の週末に一人でゲイ・バーでも入って無事に済むかどうかはわかりませんが…(笑)

  

こんなんで棲み分けがされている、というか、境界線がはっきりしていることが特徴でもあるわけですけど、んじゃぁアメリカの街がすべてこうかと言うと、決してそんなことはないのが、この国のヤラシーとこ。

例えばダラスとかアトランタといったような南部の街ですね。

この辺はどーもよくわかりません。

よく知ってる人に言わせれば、

「ダラスもアトランタも全然だいじょぶだよー」

とか思うのでしょうが、このふたつの街で、ちょっとだけコワイ思いをしました。

   

まずアトランタ。

よくありがちな話しですが、出発前のミーティングではすべてのホテルが予約 OK のはずなのに、いざ現地に行ってみると、オーバーブッキング(過剰予約)で部屋が足りない、とか。

アトランタに行った時もそうでした。

お客さんの分の必要な部屋数はあるのですが、私の部屋だけない、と。

   

んで、そのホテルの道路一本隔てた別のホテルに、私の部屋を取りました、と現地ガイドから言われました。

その時の予定はアトランタに一泊だけして、翌日の早朝から移動してしまうので、私も はいはいそうーですか、とお客さんに必要な案内をして、解散。

スーツケースがらがら引っ張って、道路一本向こうのホテルに行きました。

   

チェックインしている最中に、ふと後ろからひそひそ話す声がしました。

別に聞く気もなかったし、第一わたしゃ英語はほっとんどできないヾ(^^;アンタ、テンジョーインデショ… ので、気にもとめなかった(とめられなかった? 爆)のですが、不思議なことにそういう話しだけは、なんだかとってもよく理解できたりします。

後ろの声曰く、

「なんか最近、ここのホテルで強盗があったらしいね。なんでもボーイを装って部屋に入って、脅してさー 財布やらカードから全部ひっさらったあとで、ひざまずいて命乞いする人のこめかみに銃弾ぶちこんだって」

ま、まぢっすかぁぁ… (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

「だから俺もここはあんまり泊まりたくなかったんだけどさー」

って、んじゃ、来るなよ…

「え、えらいとこに来ちゃったなー そんで、部屋に入ったらじゅうたんに血痕が残ってたりしたらどーしよー」

   

で、部屋に入りましたが、もちろんそこには、すっかり変色してどす黒くなった血痕などがあるわけもなく、私はやすらかな眠りにつきました。

  

翌朝、たしか 6 時ぐらいに出発だったと思うのですが、 5 時半ごろにそこのホテルをチェックアウト、お客さんが泊まっている、道路一本向こうのホテルに向かおうとしまいました。

すると玄関のベルボーイが

「どちらまで?」

「あそこのホテル」

「かしこまりました。あいにくとこの時間ですので、すぐのタクシーがございませんが、少々お待ちいただければすぐに呼んで参ります」

「あ、いえ、あそこのホテルに行くだけだから、タクシーなんかいらないよ」

「いえ。お客様。すぐに車は参りますから」

「いらんっつうに。あそこのホテルなんだから、歩いていくよ」

「いえ。お客様。すぐに車は参りますから」

「(あれ? 俺の英語通じてないのかな…)だ、だからね、あそこのホテルへ行くんだから、タクシーはいらない。俺は歩いていくの! わかった?」

「いえ。お客様。すぐに車は参りますから」

  

そのベルボーイ、歩いていくという私の腕をつかまえちゃって、離そうとしないんですよね。

「て、てめー こ、こら、はなせ! はなせ! っつうに!」

「いえ。お客様。すぐに車は参りますから」

チップがほしいのかな? とも思ったんですよね。

あんまり執拗なので。

だけどどうもそんな感じではありません。

  

んで、あそこに行くだけなのに、なんでタクシーで行かなきゃならんのだ? と聞いてみました。

曰く、

「人通りの少ないこの時間に、そんな大きなお荷物をさげて、しかもお一人でお歩きになられるのは大変危険です」

( ̄□ ̄;

だって、すぐ目の前の、あそこのホテルじゃん… そらぁ横断歩道渡ろうと思ったら、ちょい遠まわりしなきゃいけないけど…

    

って、あれ、あんなとこに眼が泳いじゃってるお兄ちゃんが座ってますねー(爆)

って、あそこにも眼が飛んじゃったお兄ちゃんが寝てますねー(爆)

って、けけけ、けっこーいやがんなー そんなお兄さま方…(爆)

   

昼間はそんなことないんですけど、やっぱり夜から朝にかけてというのは、夕べラリラリまくりのお兄さま方とか、まだ飲んでるお兄さま方とか、そんなんがけっこううろうろしてるみたいです。

  

私はおとなしくタクシーに乗ることにしました。

ベルボーイが電話したり、通りに出て流しのタクシーを探してくれましたが、なかなか見つかりません。

そろそろ集合の時間になってしまいます。

私は事情を話して、時間がないからやっぱり歩いていく、なーに、あっしだってニッポン男児の端くれ、いざっつうときゃぁ、意地でも一太刀浴びせてやりまさー だんなはここでとっくり見てやっておくんなせー みたいな感じで行こうとしますと、

「それでは私がご一緒させていただきます」

と。

  

そのベルボーイ、もう 50 に近いぐらいのすげー恰幅のいい黒人のおっさんでした。

「お荷物は私がお持ちしましょう」

「あ、どどど、どーもすいません」

んでふたりで歩き出したのですが、眼が泳いだり飛んだりしてたお兄さま方は、ちらりとこちらを見るものの、

「け! あんなのがついてんじゃめんどくせーや。俺の気がかわらねーうちに、さっさと行きな、ジャップ野郎」

みたいな感じで、相変わらず座るわ、寝るわしてます。

  

あ、でも一人で歩くのはやっぱちょっとコワイわ…

無事、ホテルについた私は、そのベルボーイに 10 ドルのチップを渡しました。

「 Thank you,Sir 」

結局、移動する距離は全然関係ないんですね。時と場合によっちゃぁ、道路の向こう側に行くだけでもアブナイ時があることを実感しました。

これがアトランタでのこと。

   

んで、ダラスなんですけど、ここもなんだかよくわからない街でした。

ダラスには何度も行ってますので、何の添乗だったかは覚えていないのですが、大きな展示会があって、それを見に行ったときのことです。

昨晩はお客さん数人とメシを喰いに出かけまして、若い人たちばっかりだったので私も必要以上に気をつかうこともなく、楽しくメシ喰って、ついでに飲みました。

で、時間もだいぶ遅くなっていたのですが、数人でブラブラ歩いて帰ったんですね。

      

で展示会の日。

主なホテルから展示会場までは無料のシャトルバスがありますので、それに乗ってお客さんを会場まで案内し、あとは昼食の場所や帰りのシャトルバスの発着場や時間などをインフォームします。

で、あとは仕事がありません(爆)

一応、私も会場をひとまわりしますが、専門分野の展示会だけに門外漢の私にはなんだかさっぱりわからず、各ブースで配ってるボールペンやら PC の画面を拭くブラシとか、レターオープナーとか、そんなんを漁って、客引き用の露出度満点のパツ金ねえちゃんの姿を、柱の陰からじっくり堪能(笑)したあとは、もう会場にいてもすることないんですね。

こんな場合、まぁケースバイケースなんですが、会場の近くに時間をつぶせるようなところがあれば、そこに行きますし、なぁ〜んにもない場合はホテルに戻ったりします。

このダラスでも、まわりには何もなく、部屋でごろごろしてるか、というわけで、いったんホテルに戻ることにしました。

   

バス停の時間を見ると、シャトルバスは、夕方になるまでありません。

タクシー使っても、渋チンの上司から精算の時に跳ねられそうだしなー(笑)

   

道はわかってましたし、天気もよかったので、歩いて戻ることにしました。

ぷらぷら歩いていきます。

ちょうどこの日は日曜日でして、展示会場はわりとオフィス街のようなところにあるので、ほとんど人通りはありません。

だーれもいない道をてれてれ歩いてますと、前からいかにもっつう兄ちゃんふたり組が歩いてきました。

   

「あー なんか、コワそー」

とか思っても、いきなり道路を横切って、反対側の歩道に行っちゃうのもミエミエですよね。

「なんで俺たち見て、そっち行っちゃうんだよー こらぁ ああ?」

みたいに言われたらヤダし…

やっぱこのまま歩いてさりげなくすれ違うのがいいよな… すれ違った瞬間に刺されるとか撃たれるなんてないよなー 真っ昼間だしなー

   

で、どんどん距離は狭まってきます。

私は、

「おらぁこう見えても、日本ぢゃ、ちょいうるさいお兄さんでよー 俺をどーこーしよーなんて考えない方がいいぜ。能面みたいに表情なくて、平気で人刺しちゃうようなのがいっぱい来ちゃいますですヨ、ハイ」

なんて微妙にトーンが変わりつつも、(`・ω・´)みたいな顔で歩いてました。

すれ違います。

  

何にも起きません。

  

ホッ…━━(´・ω・`)━━

(-ι- ) クックック やっぱり連中には能面みたいな無表情の東洋人は不気味なんだろーなー あーよかった、と日本から仲間を連れてくる必要のなくなった私は、スキップしながら帰ろうとしますと、突然、うしろから

  

「Sir〜」

 

という声が聞こえました。

気にせずスキップします。

また

  

「Sir〜〜」

  

と、今度はさっきよりちょい大きくなったような声が聞こえてきます。

それでもまさか自分のこととは思ってない私は、スキップの足取りを心持ち早くしたりしてますと、

  

「Sir〜〜〜!!」

  

と、!!をふたつもつけちゃって叫んでます。

恐る恐る振り返ってみると、さっきのにいちゃんふたり組が

  

ε=ε=ε=ε=ε=(ノ`∇´)ノ

みたいに追っかけてくんじゃねーかああああああ

  

もう反射的に逃げましたよ。

一応、私は添乗員ですからスーツにネクタイなわけで、クツも革靴です。

んで、添乗員御用達のビジネスバッグを肩から下げてますんで、そんなに速くスキップはできませんヾ(^^; マダスキップシテンノ

それでも逃げます。

  

「Sir〜〜」

って、だんだん声がでかくなってくんじゃねーかー!

ヒイイ ε=ε=ε=ε=ε=┏(゚ロ゚;)┛

   

「Sir〜〜」

ヒイイイイ ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘ イ、イロマデツイテルー(笑)

  

「Sir〜〜」

ヒイイイイイ └( ̄◇ ̄;)┐=3=3=3=3=3=3  って、戻ってどーする(爆)

   

「Sir〜〜」

ε=ε=ε=┌(;*´Д`)ノ も、もーだめだー…

 

限界です。

日頃の暴飲暴食 and 運動不足をいかんなく発揮した私は、乱れがちなスキップに狼狽しつつも、ヾ(^^; ダカラネ… 一生懸命逃げたのですが、

   

「Sir〜〜」

す、すぐうしろにいるぅぅ ヽ(ヽ>ω<)ヒイィィィ

  

でも、もーだめです。これ以上スキップできません。

気持ちばっかりあせっちゃうんですけど、どーにもこーにも足が動きません。

   

そしたらね、その兄ちゃんたちね、

俺の脇をゲラゲラ笑いながら走り抜けちゃいましてね(爆)

振り向きざまになんか言ったみたいなんですが、なんだかわかりませんでした。

そんで、そいつらそのまんま だー と走って、どっかに行っちゃいました。

(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ い、いったい何だったんだ…

   

答えは簡単。

ただ、からかわれてただけなんですね。

(爆)

   

だって、私のこと通り過ぎてから、またどっかで待ち伏せしてたとか、そんなことはなかったしね。

とっつかまえようと思ったら、かるぅくとっつかまってましたよ。

それにしても、じゅーぶん恐かったし、もう一年分ぐらい走り溜めした感じでした。

( ´Д`) < はぁー…

  

  

  

巻之三●天空の城

いきなり舞台が変わって、中国三峡くだりです。

三峡くだりは言うまでもなく、長江(揚子江)を客船でくだっていくわけですが、たいてい夜間は航行禁止になってます。

ですので、どっかの港に上陸して夜の街の散策に案内したりすることもありますが、寝るのは船内なんですね。

一時期、三峡くだりのツアーに連続して添乗してことがありまして、いつも同じ船を使いますので、けっこうクルーたちとも顔なじみになり、仲良くなりました。

   

ある日の夜。

船は巫山という街でストップ。

ここで今日のクルーズはおしまいです。

  

夕食後、船内のロビーにいたら、仲良くなったクルーが

「お前、これから何か予定あるか?」

みたいに聞いてきます。

「別にないよ」

「俺たち、これから巫山の街に行くんだけどさー ここはすげーおもしろいとこなんだよ。お前も行かないか?」

「どんなふうにおもしろいの?」

「まぁそれは自分の目で見てくれよ」

話しを聞いたら 2 時間ほどで船に戻ってくる、ということなのでお客さんの幹事さんに、

「ちょっと打ち合わせがありますので、 2 時間ほど部屋を空けます」←こんなんばっかり

と断り、そいつらと巫山の街へでかけました。

  

真っ暗です。

街灯もありません。

埠頭から街中に入るまでの急な石段を登り、石造りのゲートをくぐり、やっと街に入りましたが、山の中を切り開いたような街で、やたらと石段があります。

電気はもちろん来ているのでしょうが、全然足りてないのですかね、そこらの屋台なんかは、みんなガソリン駆動の発電器をまわして電気を取ってるみたいです。

街全体が石でできてるようなところで、しかも建物の軒先がのしかかるようにはみ出してるんで、圧倒されるというか、

┗( ̄□ ̄||)┛お、重い… というか…

  

皆さんは≪天空の城・ラピュタ≫というアニメーションを見たことがありますでしょうか。

うちの子供たちと一緒に見てたところ、冒頭で、がたがたの家並みの間を縫うように走る木製トロッコが疾走するシーンがあります。

そのシーンを初めて見た時、

「こ、こりゃぁ巫山だ…」

と思ってしまいました。

家と家の間隔の狭さとか、高い山並みに囲まれて押しつぶされそうな街並とか、ラピュタに登場する家は木の家がほとんどでしたが、これを石造りに代えたら、まさに巫山です。

  

な、なんか、すげーとこだな…

きょろきょろしながら、クルーの後についていきます。

すると、あるビル… っつうか、相当ガタが来てるコンクリートの箱… というか、今ではほとんど見られなくなったガタガタの雑居ビルって感じですかね、そんなところに入っていきました。

階段なんかも真っ暗です。

「ちょ、ちょっとさー なんなんだよー ここよー」

「なんだお前、びびってんのかー ケーッケッケッケ」

いや、あのね… びびるとか、そーゆーことではなく、ここはなんですか? っていうことをお伺いしたいんですけろ…

   

鉄製の格子戸をがらがらがらと開けると、ほのかな明かりの中にソファーとはテーブルが並んでました。

んで、 50 代ぐらいのばーさんがカウンターの中にいます。

カウンターにはウイスキーやら何やらの酒瓶が並んでました。

なんだー 飲み屋かよー ったく、こんなとこまで連れてきやがってよー

店のばばーとクルーは、なにやら方言丸出しでしゃべってます。

かなりきつい方言で、私にはさっぱりわかりませんでした、というより、聞く気もなく、ただブツブツ言いながら飲んでたんですけどね。

  

いい加減酔いもまわってきたころ、クルーの一人が立ち上がってばばーと二言三言話した後で、別室のドアへ消えていきました。

特に気にせず、飲み続けます。

と、

「お前もあの部屋に入ってみな」

「何があんだよ、あの部屋によー」

「まぁ入ればわかるって。ここのマスター(あのばばーのことか?)には話しつけてあるから大丈夫だよ。俺たちゃ、まだ当分ここで飲んでるから、ちゃんと船には帰してやっから」

( ・ω・)?

何が何だかよくわかりませんが、とにかくその部屋に入ってみることにしました。

  

かちゃ

中にはソファーとかテーブルがおいてあり、女の子が 5 〜 6 人座っていました。

( ・ω・)??

女の子が私に近寄り、

「ねぇ、どの子にすんの?」

って、

  

置屋かよーーーーーーーー

(爆)

   

そうか、そーゆーことだったのか…

いーよー 別に遊ぶ気もないっすよー

で、よく見たら、あ、けっこうかわいい子いんじゃん…(爆)

   

こーゆー場合、問題はいろいろありまして、どこまで 【遊べる】 のか、どこで致すのか、いくらかかるのか? とか。

さらに、まさか美人局じゃないだろーなー とか いきなり公安に踏み込まれたりしないだろーなー という不安もあったりしますが、クルーたちは何度も遊んでるみたいだし、マスターには話しつけてある、って言ってたし、まぁそんな悪いようにはならんだろう。

  

酔った勢いもあり、私は

「んじゃ、そこの子ぉぉ〜」

みたいに決めてしまいましたヾ(^^; アンタネ…

  

私が指名したその子は、立ち上がると私の手を取り、その部屋からさらに別室に連れて行きました。

コンクリートむき出しのその部屋には病院のそれのような、無骨な金属製のベッドが置かれており、その上にはぺらぺらの布団が敷かれていました。

な、なんか苦笑…

  

その子は部屋の隅の冷蔵庫からビールを出すと、私についでくれました。

んで、ビールなど飲みつついろいろ話しをしたのですが、けっこう巫山にはこの手の店が多いようで、あちこちにあるんだそうです。

もちろん地元の○クザ屋さんたちとも関係はあるのでしょうが、店同士で客を取り合うとか、そんなことはなく、けっこう平和に共存している、と。

わりと話しが理路整然としているので、トシを聞いてみたら 23 〜 24 とか言ってましたかねー

  

で、いよいよ始めようかと、話題の転換を図ろうとしたまさにその時!

かちゃ

ノックもなくドアが開いて、一人の男が入ってきました。

  

ΣΣ(゚д゚lll) げげ

   

思わず固まる私。

すると、その男はやはり冷蔵庫からビールを出すと、傍らのイスに座って飲み始めました。

な、なんなんでしょーか、いったい…

そいつは別に私らのことを気にする風もなく、ビール飲んだりタバコ吸ったりしてます。

「あ、あのさー か、彼はなに?」

と女の子に聞きますと、

「あー 私の彼氏」

    

  

   

   

  

(爆)

   

  

  

  

   

な、なんだとーーーーーーー

お、お前ら、ななな、何かんがえてんだー んで、その彼氏っつうのは、どーすんだ、こいつは? このまま、ここでビール飲んでんのか、飲んだら行っちまうのか、それとも飲んだら、さささ、 3P ですかーい(笑)

  

あまりのことに、すっかり正気を失った私は、何が何だかわからなくなってきました。

置屋と思ったのは、俺の勘違いなのか?

だけど、このシチュエーションはどー見ても置屋だよなー

でも、この子の彼氏が、ここにいるって、それは一体どーゆーことなんですくわ。

   

全然判断がつかなくなった私は、もはやビールを飲むしかありません。

女の子も最初のうちはついでくれましたが、 1 本あけ、 2 本めも空くころになると、なんか不思議そうな顔して私のこと見てます。

   

「ねー お友達待ってるんでしょ? 早くしないと時間遅くなっちゃうよ」

「はい?」

「どーすんの?」

「どーするって言いますと…?」

「やるなら早くやろーよー」

って、露骨な表現ごめんなさい。でも、ほんとにそー言ったんです。

   

「やるってったってさー だだだ、だって彼氏が…」

「あー 別に気にしないでいーから」

「いいい、いや、そんなこと言われましても…」

  

で、よくよく話しを聞いてみますと、なんか最近、この手の女の子と客のトラブルがあって、怒り心頭に発した客が、女の子のことボコボコにしちゃったらしーんですね。

んで、恐いんで用心棒っつうことで、男を置いとく、と。

部屋の外だと、カギかけられたら入れないんで、同じ部屋の中にいるそうです。

んで、んで、女の子がこーゆー仕事をする、というのはふたりの了解事項なんで、別に普通にコトを致す限りは、男も手出しはしない、と。

   

わたしゃ、もう開いた口がふさがりませんでした。

了解事項だか何だか知らねーが、いくら何でも彼氏が見てる前でできるかい!

    

すっかり酔いも醒め果てた私は、

「もー帰る」

「あらー いーのぉ?」

「いー。帰る」

「こーゆー場合、お金はどーすんのかなー」

「俺の連れがいただろ、そいつらから取れ」

「んじゃ、そーするわ ばいばーい」

   

で、さっきの飲んでた部屋に戻ると、だーれもいません(笑)

ばーさんに聞いてみたら、

「みんなそれぞれ楽しんでるよ。どーだった、あの子は?」

「うるせー(泣) 俺は先に帰るって、あいつらに言っといてちょーだい」

私はさんざん迷いつつも、来た道をたどり船に帰ってフテ寝しました(笑)

    

翌朝。

そいつらから、なんだお前、先に帰っちゃうから心配したぜー みたいなことを言われました。

「おめーら ふざけんじゃねーよー 夕べは、あんなんで、こんなんで…」

と顛末を話しましたら、

   

ぎゃははははははははははははははははは _(;_ _)ノ彡☆バンバン!

   

と全員が大笑い。

女の子が殴られたというのはたまに聞く話だけど、いくら何でも彼氏を部屋に入れる女がいるか、っつうの。

とか言われて、

「よっぽどお前とはしたくなかったんだなー その子(笑)」

ななな、なんだとー

なんだよー なんだよー まさかこんな目に遭うとは思わなかったじょー

「でもまー そうやって相手を選んでるようじゃぁ商売女としては失格だよな。だからくよくよすんなよ。またどっか連れてってやっから」

って、あのー それって全然なぐさめにも何にもなってないんですが…

   

ちなみに、これとよく似た話はもう一回経験してます。

って、そんな風に書くと、

「おまえ、添乗中にそんなことばっかりやってんのか」

とか言われそうですが、そそそ、そんなことはないです。

  

んで、 【よく似た話】 なんですが、これはちょっとまずい話なんですよね。

香港に出張(添乗ぢゃないよ (^^)b )に行った時、出張先のマネージャーと飲みに行きました。

それも香港ではなく、香港に隣接する中国領・深[土川](しんせん)に行ったんです。

   

ちなみに、この深[土川](しんせん)の [土川] の字は、土偏に川と書きます。

日本の国字にそんな字はありませんので、[土川]と書くことにします。

ですので、深[土川]と書かれていたら 【しんせん】 と読んでくださいね。

  

で、この深[土川]という街は、ここ 10 年ぐらいの間に爆発的に発展したところで、高層ビルがにょきにょき建ち、おもしろおかしい怪しい店もたくさんあります。

けっこう香港人たちは気楽に深[土川]に遊びにいきます。

  

一昔前まで、香港人同士の間で

「命の洗濯をしてきたよ」

とかいうと、それはマカオのカジノで遊んできたことを意味してました。

しかしこのころの香港人がそう言うと、それは文字通り

「深[土川]で遊んできた」

っつう、意味になるんですね。

   

で、その日はマネージャーと深[土川]のカラオケボックスに行きました。

中国の場合、カラオケボックスといっても、一般的にはかなり広い個室で、たいてい女の子が同伴します。

女の子によってはかなりきわどいサービスをする子もいるようで、まぁカラオケボックスとキャバクラがくっついたようなもんですね。

すでに香港で一杯飲っていた我々ですが、またそこでもぐびぐび飲みます。

それにしても、私の知り合いって、私以上にぐびぐび飲む奴が多くて、ほんとに愉快ですわ(笑)

  

そこの店の社長とマネージャーは友達だそうで、私にも紹介してくれましたが、非常に仲がよさそうです。

私たちはふたりなのに、女の子は 10 人ぐらいいます。

全然バランスが取れてません(笑)

  

ひとしきり飲んで歌って騒いだあと、店の社長が

「お持ち帰りもできまっせ。お客さん」

  

別に言い訳はしません。

持ち帰ることにしました(爆)

   

だけど、私のホテルは香港だし、当時、香港はまだ中国に返還されてなかったので、中国領の深[土川]から女の子を香港に連れ帰ることはできません。

ところが用意周到というか、見抜かれてると言うか、ちゃんと場所が用意されてるそうです。

しかも店からそこまで専用車での送り迎え付き(笑)

 

で、行ったんですが、問題はその連れて行かれた場所なんですよね。

私は車が入っていこうとした建物に書かれた看板を見て、自分の眼を疑いました。

   

それはさすがにここでは書けません。

   

だって、中国の要人がここを読んだら絶対に国際問題になっちゃうもん。

って、読むわけもないのですが(しかも日本語サイトだし・爆)、さすがの私も度肝を抜かれました。

  

「ここが一番安全ですよ、お客さん」

と運ちゃんは言いますけど、たしかにそうなんでしょうが、これを日本に置き換えて考えてみた場合、いかにすごいところに連れて行かれたのかがわかります。

ですんで、この辺はもしオフ会ででもお会いすることができたら、オフレコで暴露したいと思います。

  

んで、まー びくびくしながらも納得し(笑)、そそくさと部屋に入ったわけなんですが、ふと気になりました。

「ねー アレ持ってるよね」

「アレ?」

「そー アレ」

「何がアレ?」

って、一向に話が進みません。

ス○ンだよ、ス○ン(爆)

  

「あー 私持ってきてないよー」

「えー ぢゃ、どーすんだよー 俺だってそんなの持ってないよ」

「私は別にナシでもいいけど」

   

(爆)

   

「おめーがよくてもなぁぁ… 俺がヤなんだよ!(魂)」

  

んで、結局、その子とまたビール飲んで、何にもしないで帰ってきました。

何か一晩中、ビール飲んだり、意味もなくドライブしてたみたいで、結局、こんなもんなんですね、

私の人生…(´;ω;`)

  

  

  

巻之四●徘徊

オマケです。

私じゃなく、私の親父の話です。

   

親父はずっと病院で働いていました。

医者ではありません。

病院の事務長です。

今のようにコンピュータなどなかった時代ですから、毎月末の保険請求の仕事は、それはそれは大変なもので、毎月のうち、 2 〜 3 日は必ず徹夜してましたね。

  

私も高校生ぐらいの時に、アルバイトに行ったことがあります。

通常の診療が終わってからの作業ですから、当然徹夜になってしまうわけで、その時、深夜の病院というのは薄気味悪いとこだなぁと実感しました。

  

この話しは親父が徹夜で保険請求の仕事をしていた時のことです。

ある冬の日、あるアル中のおっさんが入院してきました。

もう口もろくにきけず、痴呆もいくらか入っていたようでして、入院といっても、本当に入院する先の病院のベッドが開かず、とりあえず今日だけ 【泊めてやってくれ】 みたいな、そんな感じであったようです。

  

深夜。

親父は本日の徹夜担当者 M さんと仕事をしつつも、

「今日入院してきた人、何だか薄気味悪いな」

「そうですね〜」

みたいな話しをしていました。

  

そして M さんがストーブに石油を入れようと、階段の下に作られた収納庫に石油タンクを持っていきました。

薄暗い明かりの中で、しゅこしゅこ石油を入れてますと、ふと視線を感じたそうです。

あたりには自分一人しかいないし、深夜なので入院患者も全員眠っているはずだ…

きょろきょろ見渡してみても、やっぱり誰もいません。

気のせいかと思い、またしゅこしゅこ石油を入れ、ふと階段を見上げると、

そのおっさんが階段の途中で、にやにや笑いながら、その人のことを見下ろしていました。

   

深夜の静まりかえった病院内で、足音も立てないで階段を下りていた…

裸足だったんだろ?

違います。

おっさんは階段の途中で立ち止まっており、 M さんの目線とおっさんの足もとがちょうど同じぐらいだったそうで、スリッパを履いていたのが見えたそうです。

スリッパ履いて階段おりたら、ぺったんぺったん って音がしますよね。

ところがまったくの無音状態。

M さんは思わず、ぞおおぉぉっとしたらしいのですが、職務上、

「どうしました? ちゃんと寝てなきゃダメですよ」

と、おっさんをベッドに連れ戻しました。

   

事務局に戻ってから、親父に

「事務長ぉぉ さっき、例の人が…」

と話したそうですが、その時親父は大して気にもとめず、

「ふ〜ん」

程度の反応でした。

仕事に戻ります。

    

「事務長ぉぉ でも、どう考えてもおかしいですよね」

「うん…」

「絶対変ですよ、だってあの人、ひとりじゃほとんど歩けないような人じゃないですか…」

「ああ…」

「それなのに、なんで…」

「うるさい。いいから仕事しろ」

「はぁい」

    

再び仕事に集中し、ペンを走らせる音だけがしていた事務局の中で、突然ブザーが鳴り、患者の異変を知らせるランプが点滅しました。

見ると、例のおっさんの部屋です。

   

「お前、ちょっと行ってこい」

「え゛…  か、かんべんしてください。事務長行ってくださいよぉ…」

「なんだ、お前。子供じゃないんだから、早く行って来い」

「かんべんしてください」

「ったく、しょがーねーなー」

   

親父はぶつぶつ言いながらも早足で病室に向かいました。

ノックをして病室に入ると、おっさんはベッドの上に座っていました。

「どうしました?」

おっさんはトイレに行きたかったそうです。

親父は内心 「トイレぐらいで呼ばないでくれよ…」 と思いつつも、一人ではまともに歩けないおっさんに手を貸し、トイレまで連れて行きました。

トイレのドアを閉め、親父はドアを正面にして、向かい側の壁に背中をあずけ、廊下に立って待っていました。

   

出てきません。

いくら待っても、おっさんはトイレから出てきません。

   

倒れてるのか?

でも、そんな物音はしなかったし、しかし、しゃがんだまま気を失っているのかも知れない。

そう思った親父はドアを開けて中に入りました。

誰もいなかったそうです。

個室もすべてドアは開けられており、もちろん中には誰もいません。

  

( ・ω・)モニュ?  ヾ(^^;キンパクカンガ…

 

窓から出ていってしまったか?

しかし皆さんの期待通り、窓は閉じており、カギまでかかっていました。

  

( ・ω・ )ムニュ?  ヾ(^^;ダ、ダカラネ…

 

いなくなってしまった(笑)

さすがにあせった親父は、まず病室がある二階を探しました。

すべての部屋のドアを開け、熟睡している入院患者もひとりひとり確かめ、手術室や、れれれ、霊安室などもすべて見ましたが、いません…

   

一階におります。

診察室や待合室、調理室といったふうに、順番にドアを開けますが、

いません…

   

あせりまくった親父が、事務局まで戻ってきた時。

当時の事務局は、病院自体が小さいところでしたので、待合室などの全体が見渡せるように、前面ガラス張りでした。

廊下のほのぐらい明かりの向こうに、そこだけ煌々と明かりがつけられた事務局が見えます。

親父は急いで事務局に戻り、その気配を中にいた M さんが感じて顔をあげ、親父を見た瞬間。

  

M さんの顔がゆがみ、ひきつりました。

「じ、じ、事務長ぉぉ う、うしろ…」

思わず振り返った親父の顔のすぐそばに、

そのおっさんの顔がありました。

  

「うわ!」

  

おっさんは親父に張り付くように、ぴったりと体を合わせていたそうです。

その眼は潤んでおり、半分開けた口からよだれが糸をひいていました。

我に返った親父は、それでも職業意識を取り戻し、トイレに行ったのか、うしろに張り付いてちゃびっくりするからやめてくれ、と諭し、また病室まで連れ帰りました。

   

ちなみに…

うちの親父は、すげークソ度胸の持ち主です。

【恐怖】 という感覚は、どっかに置き忘れちまったみたいで、特に、この手のモノにはまったく動じません。

今はトシも取り、だいぶ涙もろくなったりしましたが、それでも 【この手のモノ】 に対する免疫というか、無神経というか、とにかく全然動じません。

   

事務局に戻った親父の話しを聞いて、 M さんは冷静に考えてみたそうで、事務長はドアの前に立っていたのだから、そのおっさんが出てくるのを気づかないわけがない。

そして、事務長はそのままトイレに入って中を見たが、誰もいなかった。

いったい、このおっさんはいつ、どうやって、トイレから出て、事務長の背中にへばりついていたのか…

  

そして真夜中の病院の、ほのかなあかりの中でおっさんを探す親父の姿を想像してみました。

ひとつひとつドアを開け、探している親父のうしろにへばりつくように、当の本人がいる。

しかも親父の歩調に合わせているかのように、ぴったりと影のようにはりついている。

M さんはその二人の姿を想像するにつれ、恐怖が首をもたげ、しかもこちらに向かってくる親父のうしろにへばりついているおっさんの姿を、実際見ているわけですから、ますます恐怖を覚えたそうです。

  

んで、当の親父なんですが…

「ったくよー ぴったりうしろにいやがるから、驚いたよ かんらからから」

と、全然気にしてないよーす。

  

さ、さすがです…

   

「いやぁ〜 君のおとーさんのクソ度胸っつうか、不感症には、まったく恐れ入ったよ」

とは、後日、この話しをしてくれた M さんが私に言ったことばです。

そ、その通りです(笑)

   

もう M さんは仕事どころじゃなかったそうですが、親父は相変わらずの様子で仕事をしてますので、いつまでも震えているわけにもいかず、仕事を続けました。

 

そして、またふたりが仕事に没頭し始めた時

  

ぴし

   

と事務局のガラスが音をたてました。

ふと見上げたふたりの眼に飛び込んできたものは…

  

 

  

  

ヤモリのように両手を大きく挙げて、ぴったりとガラスに張り付き、しかも顔の片面をガラスも割れんばかりに押しつけ異様な表情となったおっさんの姿でした。

   

「うわあああああああああああ」

   

と悲鳴を上げたのはもちろん M さんと…

親父も悲鳴をあげたそうです(笑) サ、サスガニ…

    

おっさんはますます強く体をガラスに押しつけてきます。

おっさんの顔はますますゆがみ、ガラスをぶち抜んばかりでした。

もう M さんは声も出なかったそうですが、

あっ!

という間に我に返った親父(さすがです)は、おっさんを引き剥がし、脈をとり、瞳孔を見ました(さ、さすがです)。

ちょっとアブナイ状態だったそうで、すぐに別棟で当直している医師を呼び、救急手当を施しました。

まぁ一命はとりとめ、ほんとに一泊だけして翌日は別の病院に移っていったそうです。

  

この話しには後日談がありまして、当時、私の家のそばにちょっとした規模のお寺がありまして、よく縁日なんかには屋台が出たりしたんです。

ある縁日の日に、親父がぶらぶら散歩してましたら、そのおっさんがたこ焼き焼いてたそうです(笑)

んで、親父の顔見て、にやっと笑ったとか…(爆)

オマケのつもりだったんですが、えらい長くなってしまいました…

  

おしまい
| T/C | 13:24 | comments(0) | - |
独り寝
たいてい添乗員の部屋というのはシングルです。

これは別に連れ込んじゃうとか、そんなことをするためではなく、何かトラブルがあれば徹夜の時もあるし、そうでなくともお客さんから電話がかかってきたり、その日の精算やレポート書いたり、と遅くまでバタバタしているためで、よっぽど特殊な事情がない限りお客さんと同室なんてことはありません。

  

ホテルの部屋というのはツイン、つまりひとつの部屋にベッドがふたつ置いてある部屋がほとんどなんですが、もちろんシングルルームもあります。

  

国内添乗の場合は、ピークシーズンなど布団部屋みたいなとことか、

いわゆる

「出る」

部屋に入れられちゃうこともままあるようですが、私の場合はほとんどが海外でしたので、そんなこともなく ( 「出る」 部屋だったことはあるかも知れませんが)、お客さんと変わらない部屋です。

もっともヨーロッパの昔の城を改装したホテルなんかの場合は、一番条件の悪い部屋になることはありますけどね。

  

1 日の仕事が終わって、自室に引き上げてきます。

お客さんからの電話に対応し、レポート書いて精算して、さってシャワーでも浴びるか、という段になって、おもむろに自分のスーツケースを開けるわけですけど、私、実は腰痛持ちなんです。

下に置いてある重いものを持ち上げる時には、特に注意が必要で、添乗中に添乗員がぎっくり腰で動けません、なんてシャレにもなりません。

  

ですんで、自分の部屋がツインの場合は、片方のベッドの上にスーツケースを置いて、それでぱかっと広げて、着替えやら洗面道具を出したりするんですが、困るのはベッドがひとつしかない、ほんとのシングルルームの場合です。

ビジネスホテルのベッドのようにちっちゃい場合は、必要なモノを出してから、またそろーり、そろーりと下に下ろすんですけど、同じシングルでも、キングサイズやクイーンサイズあるいはシングルじゃなくダブル、つまりダブルベッドが真ん中にでーんと置いてある場合は、スーツケースを広げても、人間ひとりが横になれるぐらいのスペースができるんですよね。

  

んで、私はその隙間に寝ます(爆)

自分で言うのもナンですが、私は非常に寝相がよく、寝返り打つときも、体の中心を軸に回転してるみたいですので、専有面積は常に一定です。

ですので、ベッドの三分の二をスーツケースさんがお休みになられ、寝台列車ほどのスペースしかなくても、全然平気で寝ちゃうんですね。

非常に便利です(哀)

 

って言うか、あんまり広いベッドに一人で寝る、っつうのは何か落ち着かないっつうか、そういうのを称して貧乏性と言うのか、わかりませんが、とにかくそうなんです。

普通、でっかいベッドだったら、堂々と大の字になってグースカいきたいとこですが、私はそれをやっても、徐々に端っこに移動してしまい、ベッドから墜ちるか墜ちないかのぎりぎりのところで寝てます。

我ながら、せせこましい奴だと思います(狭) 体はでかいのにネ

  

んで、翌朝、スーツケースをベッドから下ろすと、もともと糊の効いたぴちぃーんとしたシーツの上にさらにスーツケースという四角いモノが一晩中重しをかけてたわけで、なんかもうこれ以上はないってぐらい、平らになっちゃって、ぬりかべが寝てたみたいです。

んで、そのベッドの端っこ三分の一ぐらいのところだけの毛布が持ち上がってて、しかも体を軸に回転してたわけですから、トンネルみたいな感じになってます。

   

これ、かなり変です(爆)

   

掃除にきたメイドのおばちゃんとか、

「なにこれ」

みたいに思うでしょうね、きっと。

  

まれに、予約しているホテルがオーバーブッキングとかそんなんで、お客さんの部屋数はあっても、添乗員の部屋がないときがあります。

そんな時、

「スウィートなら空いている。スタンダードルームと同じ料金でいいから、今晩だけそこに入ってくれ」

みたいなことを言われる時があります。

  

たいていこういう時は、お客さんの中でも一番偉い人にそのスウィートをゆずったりするんですが、ホテルに着いたらまずはお客さんに先に部屋に入ってもらい、添乗員の部屋なんてあとまわしですから、やっと添乗員部屋でスウィートが出てきた時には、すでにその人はシャワーなんか浴びており、

「ありがたいけど、もう面倒くさいからいいよ」

みたいなことになります。

わたしゃ自分の金でスウィートなんて泊まったことないですけど、こんな感じでスウィートに寝たことは何回かあるんですね。

   

一般にスウィートというのは、ベッドルームの他にリビングがあるわけで、ベッドもでかく、浴室もシャワーブースが独立してたり、バスタブがすげーでかくてジャクジーがよく効いたりと、まぁいい部屋です。

そこにひとりで寝る、っつうのもね…

とは言っても、どーすることもできないので、あ、ホントです。

決して夜の街に出てったりなんてしないヨ。

ホントダヨ ヽ(^^; ナンデイキナリカタカナニナルノ ヽ(^^; ッテ、アンタモヨ

  

そんな時も、スーツケースは当然のごとくベッドの上です。

んで、毛布はトンネル状態です。

リビング、つったって、そこで商談するわけでもなし、せえぜえ灰皿に吸い殻が転がってるぐらいですわね。

ほんと、もったいないです(爆)

  

飛行機に乗ると、すぐ寝ちゃう人っていますよね。

男性よりも女性の方に、そういう人は多いような気もしますが、私は飛行機だと眠れないんです、これがまた。

飛行機が怖い、という根本原因もあるんですが、全然揺れない快適な飛行でも、どうも眠れません。

  

アジアなんかに行く時は、せえぜえ数時間ですから別にどぉってこともないですけど、アメリカ特に東海岸直行便なんかは、けっこう辛いモノがあります。

まぁ文庫本とか PDA とか、機内映画を文字通り腰すえて見たりとか、狭いエコノミーのシートで、もじょもじょ十数時間を過ごすわけですが、けっこうまわりには熟睡してる人、多いですね。

  

真底うやらましいわ。

  

ほんと、後頭部のあたりに起きる時間がセットできるタイマーでもつけたいです。

   

ただ長距離飛行には時差というやっかいなものがありまして、いくら日本時間で夜でも現地は昼なわけで、夜日本発の飛行機でぐうぐう寝ちゃぁ、現地について辛い目に遭います。

時差克服には、出発の機内から時計を目的地の時間に合わせて、現地時間で生活するのがいいみたいです。

  

日本からアメリカに行く場合、感覚的には一晩徹夜するわけですが、これ私なんかにはちょうどいいですね。

どうせ寝られないんだし(笑)

現地に着いた直後はつらいけど、まさかお客さんの前で居眠りもできないし、ベッドの端っこでくるくるまわりながら寝るころには眠気はピークに達しており、あっと言う間に熟睡、おかげで翌朝は現地時間の通りに起きられます。

  

ただ一度だけ、ニューヨークからの帰りでしたが、そのツアーは特に問題もなく、とっても順調にいきました。

もちろん疲れてはいるわけですけど、トラブル続きで疲労してるわけでは決してなかったんですよね。

  

にもかかわらず。

帰りの飛行機の席に座った途端、眠りこけてしまい、眼が覚めると 1 回めの機内食でした。

 

私の特技のひとつに、起きた直後でも何でも喰える、というのがありまして、起きた直後に枕元で焼き肉焼かれてても、コンマ何秒で喰えます(爆)

ですんで、すぐに機内食を食べ、で、その機内食が片づけられないうちに、また寝ちまったようなんですね。

  

次に気が付いたのは 2 回めの機内食の時(爆)

1 回めの時の繰り返しで、食べ終わるやいなや寝てしまい、気が付くと飛行機は成田空港の滑走路に着陸したところでした(笑)

  

結局、ニューヨークから喰っちゃ寝、喰っちゃ寝の繰り返しで十数時間過ごしちゃったわけで、後にも先にも、こんなことは初めてでした。

苦手な飛行機で、しかも格別の苦労があった添乗でもなかったのに、なぜなんでしょう…

 

あとからお客さんから聞いた話では、あんまり私がこんこんと眠るので、スチュワーデスが心配して何回か見に来たそうです。

それで食事の時にはきっちり起き、しかも残さずきれいに喰っちまうので(爆)、

「なにこいつ」

みたいに思われたんだろーなぁ  -y(; ̄∀ ̄)。o0 ○

  

ホテルのメイドといい、飛行機のスッチーといい、まともに見られたことのない私です。
| T/C | 13:17 | comments(0) | - |
添乗員はモノを知っているか
人から職業をたずねられて、

「旅行屋です」

と答えると、たいてい

「へぇ〜 いろいろなところに行けていいですねぇ〜」

とか、

「今度、おいしいレストランとか穴場を教えてくださいよ」

とか言われます。

  

もちろん、普通の人よりはあちこち行ってることは事実ですし、おいしいレストランも知ってます。

  

特に中国はほんとによく行かされましたので、各都市のおいしいレストランなんかはたちどころに 10 やそこらは言えますし、来歴や蘊蓄を語ることもできます。

  

ただ、問題は後者の 【穴場】 なんですよね。

穴場って、そこに住んでる現地の人しか知らないとか、旅行者はまず知らない、行かない、そんなところを言うのでしょうが、これを添乗員が知っているかというと、むしろ知らないことの方が多いんじゃないかと思います。

添乗のスタイルは千差万別ですので、私がそうだからと言って、他の添乗員も同様かというと、決してそんなことはないのですが、私の場合、いわゆる 【穴場】 はあんまり知りません。

  

そこで今回は、

「添乗員なんだから、こんなことぐらいは知ってるだろう」

とか、

「添乗員なんだから、おもしろいとこ山のように知ってるはずだ」

というありがちなイメージを払拭し、素の添乗員の姿に迫ってみたいと思います(笑)

 

あ、しつこいようですが、あくまでも 【私】 のことですよ。

ちゃんと勉強したり、まめに情報を仕入れているまじめな添乗員さんもたくさんいますので、ごっちゃにしないでくださいね。

   

  

  

その 1 ◆穴場を知っているか

ここで言う 【穴場】 とは、いわゆる 隠れ家レストラン とか、現地人御用達みたいな、そんなところとします。

まず結論から言うと、ほっとんど知りません(爆)

  

最も回数を行っている中国の場合、食事というのは三食セットされているケースがほとんどです。

中国のパッケージツアーに参加されるお客さんは比較的年輩の方が多く、仮に

「夕食はお好きなところへどうぞ」

となっても、尻込みしちゃって、よー行かん人がほとんどなんですよね。

  

別に非難してるわけではなく、これはむしろ当然のことです。

また意を決して街に出ていったとしても、まずことばが通じない。

そこらの食堂のおっさんやおばさんが日本語や英語を解するわけもないし(これは日本だってそうです)、隣の人が食べてるものを指さして、

「あれをくれ」

と身振り手振りで注文するなんてことは、まずやらないでしょうね。

日本では満員電車でもどこどこ乗り込んできたり、わずかな座席の隙間にもぐりぐりお尻をめり込ませて座っちゃうような 【オバハン】 も、ひとたび海外に出ちゃうと借りてきた猫のようになっちゃう人がいます。

もっとも日本でも海外でも おんなじ 人もいるにはいますが、幸か不幸か私がご一緒してきたお客さんは、ほとんどがこのようにおとなしくなっちゃう人たちでした。

  

また街なかの食堂は衛生面でも難あり、のところも多く、最近は北京や上海、広州といった大都市では個人経営のすんげーきれいなレストランもたくさんできてますが、地方になるともうダメです。

私なんかでも、

「え… ここはちょっと…」

と怖じ気づいちゃうところもいっぱいありますしね。

  

そんなんで、中国のパッケージツアーは三食ともに現地の手配先がセットしたレストランで食事をとることが一般的でして、当然添乗員もお客さんと一緒に食事をすることになります。

その時、同行している中国人ガイドは決してお客さんと同じテーブルにつこうとはしません。

彼らはバスの運ちゃんなんかと一緒に食事をするのですが、メニューは我々のモノとはちょい違います。

いわゆる 「司机飯」 、司机は中国語で運転手の意、つまりドライバーズメニューということで、我々のメニューが全 12 品だったとすると、彼らが食べるのはその内の 3 〜 4 品程度、それも野菜炒めだったり、スープだったりと、つまりはお客さんに出すメニューの中で、比較的安いやつをちょこちょこっと別皿に盛り分けて出されるわけです。

  

また一般の中国人の食事マナーは、日本人から見ると眉をしかめる事が多く、皿や椀を自分に近づけるのではなく、自分の口を近づける、いわゆる犬食いであったり、骨付きの肉を口の中でもぐもぐやった後、ぺっとテーブルの上にそのまま吐き出しちゃったりします。

このあたりのことは中国では、ちっとも行儀悪いことではなく、ごく普通のことです。

日本人だったら、骨なんかは目立たないように、自分の取り皿のはじっこにちょこっと置いたりしますけど、 「これから食べる骨付き肉」 と 「もう食べちゃった食べかすの骨」 を一緒の皿に置かない、そこら辺を吐き違えないところに、各々の国の文化の真骨頂がかいま見える、と何かの本に書いてありました(笑)

もちろん冗談半分ではありますが、言い得て妙であります。

  

このへんの捉え方というか感覚の違いは、さすがに四六時中日本人観光客と接している中国人ガイドは心得ており、

「メシの時ぐらい、好きに喰わせてくれよ」

みたいな感じで、お客さんから

「あなたも一緒に食べましょうよ」

と誘われても、笑顔で

「ありがとうございます。でも我々のメニューは皆さんとは違いますので」

などと、さも残念そうなそぶりで向こうのテーブルに行っちゃいます。

  

で、添乗員は当然お客さんと同じテーブルに座るのですが、この時がまた結構大変だったりします。

次々と運ばれてくる大皿の料理の中で、珍しいものが出てきたりすると、

「あらー これ何かしら?」

「ねぇ、添乗員さん、これいったい何?」

となります。

私もたいていの料理は知ってますので、知っているモノであれば説明しますが、中には見たこともないやつが出る時もあるわけですよね。

そんな時は、料理を運んできたウエイトレスに聞くわけで、それをお客さんに説明します。

ちなみに添乗員を始めてから最も多くの中国語の語彙を覚えたのは、この料理の名前と調理方法、それと医学用語だったりします。

   

そんなわけで食事の時もお客さんと一緒。

もちろん昼間の観光も一緒。

  

夕食が終わってホテルに戻ります。

部屋に入ってもすぐにシャワーは浴びません。

たいていお客さんから電話がかかってくるからです。

 

「明日のモーニングコールは何時だったけ?」

「○△が買いたいんだけど、明日はショッピングの時間あるかしら?」

とか、

あと多いのが

「バスルームの電気がつかないんだよ」

「トイレの水が流れません」

といった水まわりのトラブル。

  

ホテルに入った初日は、お客さんが一息ついたころを見計らって、各部屋をまわります。

おもに電気はちゃんとつくか、トイレ、バスルームの水まわりは大丈夫か、といったところを確認するのですが、昨日は大丈夫でも今日はダメなのが中国。

中には、

「同室のやつがまだ戻らないんだけど」

とか、

「部屋のかぎが開かないよ」 or 「かぎなくしちゃった」

ってのも多いですね。

   

ですから、自分の部屋に戻っても、一時間ぐらいはネクタイをゆるめる程度で、すぐに出られる服装のままでいます。

まぁこの時に添乗レポート書いたり、その日の収支を計算したり、翌日の用意をしたりするのですが、かけ出しのころはこうしたタイミングがわからず、部屋に戻るなり、

「あぁ 疲れた」

とばかりに、すぐにシャワー浴びて、途中で電話がかかってきたりとか、そんなことも多々ありました。

  

やっとお客さんも落ち着いたようです。

レポートも書いたし、精算もした、と。

んじゃ、シャワーでも浴びますか。

で、シャワーを浴びてパンツいっちょで、ぼーっとテレビでも見てるとさすがに疲れを覚えます。

で、明日も早いから寝ようか、と。

  

だいたいお客さんのモーニングコールが 7 時であれば、添乗員は 6 時ぐらいに起きなきゃいけません。

ホテルのフロントがモーニングコール忘れることもありますしね。

そんな時は自分で各部屋に電話しなきゃいけないし。

   

だいたいこんな感じでツアー日程を消化していくわけですが、

ね? こんなんだから添乗員には自由時間なんてないし、穴場を探す時間もない、知っていても行く時間もあんまりないわけなんですよ。

もっともお客さんが落ち着いたあとから、ツアーに付いてる中国人ガイドと気が合っちゃったりすると夜も夜中から飲みに行ったりもしますけど、翌日のことを考えるともちろんそんな深酒はできません。

勢い、そこらで軽く、なんてことになるわけで、泊まってるホテルのそばに 【穴場】 があるとは限りませんしね。

  

添乗そのものを生業とするプロ添乗員、いわゆるプロ添は、中国のツアーがまわってくると

「あぁ〜 今回は楽できるなぁ」

と思うそうです。

欧米のツアーの場合は中国とは逆に、夕食はセットされていないことが多く、そんな時は勝手に食べに行っちゃうお客さんはともかく、たいてい

「添乗員さん、どっかおいしいとこ連れってよ」

となりますので、自分でレストランを探してお客さんを案内しなきゃいけないわけですよね。

で、メニューの説明や注文も全部添乗員がしなきゃいけない。

  

私もアメリカの添乗で何回も経験がありますが、これは一苦労です。

ステーキ頼むんでも、焼き方はどうする? サラダのドレッシングは何にする? ワインは何飲む? となりますし、食べ終わってからの支払いも、何人かで行けば割り勘が原則ですが、アルコールをたくさん飲んだ人とそうでもない人とは当然、差をつけなきゃいけない。

もっともドリンクは各自で飲んだ分だけ払うのが普通なんですけどね。

  

で、やっと食事が終わって

「それでは、おひとり○○ドルですね」

と精算の時に、ちょうどの金額を持ってる人はほとんどいません。

うまく集めて自分の財布からも出してきっちりそろえばいいのですが、そうもいかない時は少額紙幣に崩さなきゃ行けないし、隣のテーブルではまだ食事してる人がいるわけで、はでに札のやりとりをするのも迷惑だし、第一危険です。

  

欧米の添乗で、一番イヤなのが、実はこの食事の時なんです。

しかも 1 日 1 回は必ずやらなきゃいけないわけですしね。

中国の場合は、夕食がセットされているし、しかもガイドも同行しているので、こんな面倒なことをする必要がありません。

ですからプロ添の連中は中国のツアーが来ると、

「あぁ… 今回はボーナス添乗だ」

と思うのだそうです。

   

どんなにいやでも自分でレストランを探せば、そういうところは絶対忘れないし、バスのドライバーに教えてもらったレストランが、実は地元では有名なところで、いわゆる 【穴場】 だった、という時もあるわけですけど、まぁそういうわけで、私の場合は 【穴場】 を知っているか? と言われれば

「知りません」

と答えるしかない添乗員であります。

  

  

   

その 2 ◆観光地の案内ができるか

中国の首都、北京を例に取りましょう。

さすがに悠久の歴史を誇る古都だけあって、北京には見どころがたくさんあります。

郊外には有名な万里の長城や、明代の歴代皇帝の陵墓・明の十三陵、また皇帝の避暑地でもあった頤和園など。

また市内で最も有名なのが天安門広場や、皇帝の居城であった紫禁城、今の故宮博物院ですね。

その他、水面に映える白塔が美しい北海公園や、皇帝が五穀豊穣を天に祈願したという天壇公園とか。

たいていのツアーは、ここにあげたような名勝旧跡は必ずまわるわけでして、おかげで私も数え切れないほど行きました。

  

まず現地中国人の日本語ガイドが先頭に立って歩きます。

それからお客さん。

一番最後は添乗員の私。

こういう時、必ず一人や二人は写真を撮ったり、メモをしたりでグループから遅れることがあります。

写真を撮り終わって、あるいはメモも書いたりしてふと顔をあげてみると、自分のグループはもう先に行っちゃって、どこにもいない。

「あれ〜…」

そんな時、私が後ろから

「いい写真撮れました? よろしければ参りましょう」

とか言いつつ近寄って、先行してるグループと合流させるわけです。

   

ですので、あんまりグループとぴったりくっついちゃっても、そういう迷子予備軍を事前に見つけられなくなっちゃいますので、適当な距離をおいて後から歩いていくんですね。

時折、ガイドが立ち止まって説明を始めます。

たいていのお客さんは、ガイドを囲むように輪になって集まり、メモ取ったりしてるわけですが、また一人や二人は露天のみやげ物屋で絵はがき買ったりとか、カメラのフィルム入れ替えたりとか、ふと気が付くと誰もいない…

で、また私が

「あれ、きれいな絵はがき買われましたねぇ」

とか何とか言いながら近より、さりげなく一緒に歩きながらグループと合流させる、と。

ですんで、私はお客さんの輪の中には入れず、また微妙な距離を置きながらお客さんを眺めてるわけです。

 

当然、ガイドの説明なんか聞こえやしません。

ですから、この石碑は何の時代に何とかとか言う有名な書家が書いたもので、とか、そんなんは全然わからないわけですね。

しかし何回も、何回も、何回も、何回も同じとこ行ってるわけですから、ここから一番近いトイレはあそこにあるとか、バスの駐車場は、あそこを曲がってふたつめの角を右にとか、そんなんだけはさすがに知ってます。

   

ただ困るのが、こういう時です。

「ガイドさんが言ってること、聞き逃しちゃったんだけどさー、あの額って、誰が書いたんだって?」

「え、え〜っと…」

  

ここですぱっと答えられるか否かというのは、後々まで響いたりします。

幸い、私は北京の大学で中国史を専攻してまして、個人的にもそんな本を読むのが大好きなので一般常識程度のことは知ってます。

「あれは清朝の康煕帝真筆ですね」

なんて、言えることも少なくなかったわけで、まぁ北京や西安、上海あたりのおおどころの観光地であれば、地元のガイドなしでもだいじょぶです(だと思います)。

   

ただ中国でも他の都市や、中国以外の国になるとまったくだめで、それこそ一夜漬けの知識程度しかありません。

以前、パリに何の予備知識もなしで一ヶ月ほどいなきゃいけなくなったことがありまして、この時のツアーでは、中国ほどお客さんべったりである必要はなかったのですが、それでも時たま、

「添乗員さん、あれ何?」

「え゛…(あれ、確かノートルダム寺院だよな… 違ったけ… まったく、なんでどれもこれも似たようなもん作んだよ、んとによー)」

みたいにしてますと、

「あ、いいや、いいや」

と、あっち行かれてしまいます(爆)

  

ちなみに、何で予備知識もないままいきなりパリに行っちまって、しかも一ヶ月近くも暮らさなきゃいけなかったのか。

もちろんワケありなんですけど、その気になったら書きます。

   

そんなわけで、添乗員って、本来の仕事をまじめにしようとすればするほど、ガイドの説明なんか聞いちゃいねーわけで、従って自分で勉強しない限りは観光地の知識なんて身につきません。

  

昔、ひょんなことで手に入れた、中国人ガイド養成のための観光地教本があるのですが、これは助かりましたね。

要所要所を押さえており、有名どころはもちろん、さほど行かないようなところまでていねいに解説してあります。

もうぼろぼろになるまで読んだもんですが、ああぁ… あのころは俺もまじめだったんだなぁぁ ( ==)トオイメ

  

  

  

その 3 ◆添乗員は仕事中に酒が飲める?

ちょっと前にも書きましたが、私は北京の某大学で中国史を勉強してました。

そんで、日本では中国語学校に通い、卒業するまでは通訳養成班に籍をおいていました。

ですんで、とりあえず困らない程度には中国語は話せるのですが、こういう添乗員ってお客さんにとっても、また中国側にとっても便利な存在みたいです。

もっともガイドからは、バスのドライバーなんかとのひそひそ話、このお客さん、どこのみやげ物屋に連れていっちゃおうか、なんてのもわかっちゃいますので、けっこう煙たい存在かも知れませんが(笑)

  

んで、添乗中に通訳がわりに駆り出されることが時たまありました。

もちろん公式の場では公式の通訳がつきますので、私が通訳のまねごとをさせられるのは、宴会なんかの時が多かったです。

  

例えば、どっかの市民団体の訪中団に添乗したとします。

こういう場合、友好都市の提携をしている中国側の街を訪問するとか、そんなケースが多いわけですが、そうするとそこの人民政府、日本で言うところの市役所ですね、そこに表敬訪問したりします。

んで、夜は人民政府主催の歓迎会が開かれたりしまして、中国の宴会は言うまでもなく円卓、丸テーブルですね。

この丸テーブルにも非常に厳しい上座、下座の掟がありまして、招く側の主人が座る席とお客さん側の代表者が座る席、その向かいに誰々、みたいに全部決まってます。

  

中国側の市長さんと日本側の代表者、つまり団長さんですね、彼らのテーブルには当然、中国側の正式な通訳が同席しますが、他のテーブルには通訳が付かないことの方が多いです。

そんなテーブルに座らされた中国側もかわいそうですが、そんな人が来ちゃったお客さん側も大変です。

お互いに変に気を使っちゃって、ぎこちない笑顔でへらへらしたり、コミュニケーションもはかれないので、無言でもぐもぐ食べたり。

まぁそんな時に私でも同席していれば、いないよりは多少はましなわけで、態のいい通訳がわりにさせられるわけです。

そんな時は私も気が楽です。通訳というより、むしろ一緒になっておしゃべりしてる感覚ですしね。

  

ただ、以前、かなり緊張したことがありました。

日本の某省庁の外郭団体の訪中団に添乗した時のことです。

その時の訪中団の団長さんがその団体の役員を務めており、しかも私の恩人の一人である人の父上なんですわ。

  

行ったところもすごかったっす。

シルクロードの名城、千仏洞で有名な敦煌です。

だいたいシルクロードは、今も昔も、日本の添乗員も中国のガイドも、

「シルクロードじゃなくて、クルシイロードだよ」

と弱音を吐くぐらい、しんどいとこなんです。

そこに恩人の父上が団長を務める訪中団に添乗したわけで、まー 今の私じゃ考えられないぐらい一生懸命に働きました(爆)

  

そしてお約束の宴会の夜。

中国側からは敦煌市長が出席。

当然、メインテーブルには市長と団長が座ります。

私は当然末席だろうと思ってましたので、宴会場の事前チェックなんかしてたわけですが、そこへ出し抜けに父上殿が現れ、

  

「今夜の宴会の時ね、私のテーブルの通訳はあなたがやってください」

  

(゚▽゚;)

えええええええええええ!!!!!

そそそ、そんな突然言われましても…

なんて、口答えは許されません。それほど偉い人なんです、その父上(泣)

もうやるしかありません。

こうなるとわたしゃ、切り替えが早いんで、

「はい。務めさせていただきます」

と即答してしまいました ヽ(^^; コワイモノシラズナノネ

  

それから宴会までの間、自分の気持ちを徐々に盛り上げ、できる、できると頭の中で念じていました。

だいたい私は本職の通訳じゃないんで、多少の誤訳はあってもいーんです。

それぐらいの気持ちで臨まないと、細かいニュアンスの訳で立ち往生しちゃったり、誤訳をおそれるあまり頭がまわらなくなったりと、そんなことになりがちです。

自信を持って臨むのが一番大切なことなんです(と、思います・爆)

  

一番怖かったのが、市長さんの話す中国語が、どれだけ標準語に近いモノか、ということだったんですが、広大な中国の場合、一口に中国語といってもいろいろありまして、北京語も広東語もみんな中国語ですが、実はまったく違うんですね。

  

一例を挙げてみましょう。

私は日本人です

これを北京語で言うと、

ウォシィリーベンレン

  

となりますが、広東語では

ンゴオハイヤップンヤア

  

ね? 全然違うでしょ?(泣)

  

まぁこれほどひどくはないにしても、地方の、なまりのある中国語というのは、我々中国語学習者のけっこうな鬼門だったりするわけです。

敦煌っつったら、中国でも非常に田舎に分類されるわけで、市長さんが生まれも育ちも敦煌みたいな人だったら、えらいことになります。

いくら自信を持って臨んでも、相手の言うことが一言もわからないんじゃ、どーしよーもありません。

もう祈るしかないわけですが、何とこの市長さん、なんか中国北方の生まれだそうで、けっこうきれいな標準語をしゃべってくれました。

「はぁぁ…」C=(^◇^ ; ホッ!

  

もう頭の中で、天使が

「よかったー よかったー」

と、よかった踊りを始めちゃいまして、狂喜乱舞してます。

  

ちなみにこの、

「天使がよかった踊りを始める」

というフレーズは、私の上の子供作でして、何か非常に共感をおぼえてしまったので、私も時たま使わせてもらってます(爆)

   

宴会が始まりました。

なんか快調です。

実にスムーズです。

市長さんも私を気遣ってくれてか、比較的ゆっくりしゃべってくれますので、こっちにも余裕ができ、私の口もぺらぺら動いてます。

   

中国の宴会に乾杯はつきものでして、何かといえば乾杯です。

んで、中国の酒は非常に強いのが多いんですね。

白酒という蒸留酒は、アルコール度数、実に 60 度ほど。

いくらでも火がつきます。

って、ガソリンかい!

(笑)

  

これを一口サイズの小さい杯に満たし、何回も何回も乾杯をやるわけで、中国式の乾杯とは、文字通り、

「杯を乾かす」

つまり、一気にぐいっとあけちゃうわけです。

  

市長さんがしゃべってます。

私はそれを一生懸命メモに取ります。

んで、話しおわると、私はそのメモを見つつ、日本語に訳していきます。

その間、市長さんは自分の取り皿の料理を食べるワケですね。

   

私の日本語訳が終わると、それを受けて日本側の団長さんがしゃべります。

私はまたメモを取り続けます。

団長さんの発言が終わりました。

私はそれを、今度は中国語に訳していきます。

団長さんはその間、料理を食べてます。

  

そんで、乾杯が入ります。

乾杯の時は、とにかくそのテーブルについた全員が立ち上がり、 60 度の酒を一気にぐいっと飲むわけで、すかさず後ろに控えているウエイトレスが、またなみなみと白酒をついでいきます。

これを繰り返していくわけですが、中国料理ってわりと油っぽいんで、胃の中に油の膜ができるわけですね。

ですから強い酒を飲んでも、ほどよい感じになるんですが…

  

けど、私って、こういう場合、いったいいつ料理を食べたらいいんでしょう?

常にどっちかがしゃべってるわけで、その間私はメモを取り続けます。

で、私が訳す、と。

んで、ひとしきり終わった後で、カンパーイ!

そんときゃ、私も飲まなきゃいけません。

つまり、料理が食べられない、ということは胃に油の膜もはれない状態で、 60 度の酒をぐいぐいぐいぐいぐいぐいぐいぐい飲まなきゃいけない…

 

(´-ω-`) あのー…

  

え、えらいことになってしまいました。

だいたい空きっ腹の時に飲む酒って、まわるもんだと相場は決まってるのに、ひたすらメモ取ってしゃべり続けて、 60 度のガソリンだけは飲まされるのかよー(魂)

  

でも、人間ってえらいもんですね。

緊張感とか使命感があると酔わないもんなんですね(笑)

結局、私の訳すペースはスタート時から衰えないまま、何とか終盤まで持ってきました。

  

んで、最後に、市長さんがですね、漢詩を吟じ始めちゃったんですわ(爆)

えー いくらなんでもそれは勘弁してくれよー そんなの訳せねーよー

でも、あれ?(・ω・ )

ほんとーに偶然ですが、市長さんが吟じた漢詩は、私も好きな漢詩で最初から最後まで覚えているものでした。

唐の詩人・王維作の送元二使安西(元二の安西に使いするを送る)という詩で、こんなんです。

  

渭城の朝雨 軽塵をうるおし
客舎青々 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西の方 陽関を出ずれば
故人なからん

  

友人との別れの詩です。

陽関とは地名でして、当時の漢民族の支配する地域のぎりぎりのところありまして、そこから先は得体の知れない少数民族の暮らす異域。

陽関から更に奥に行かなければならない友人を見送りに、陽関まで一緒に来、そこで最後の酒を酌み交わしたんですね。

そして友人に勧めます。

  

「もう一杯飲め。陽関から先は知り合いなんか誰もいないんだから」

「西出陽関無故人」

「西の方 陽関を出ずれば故人なからん」

のくだりです。

   

敦煌はこの陽関の先にあり、つまりは知ってる人が誰もいないような、最果ての地のように、この詩では詠われているのですが、市長はこの最後のくだりを、

「西出陽関 【無】 故人」

ではなく、

「西出陽関 【有】 故人!」

と、ひねり、つまりは陽関から出てきて最果ての敦煌に来ても、あなた方には私たちという友人がいるのです、と、こーゆーことを言いたかったわけです。

  

中国側の出席者は、もちろんこの市長の意図はわかりますので、

「そうだ、そうだ」

と盛んに拍手をしています。

  

私は、この原文の格調高いリズム感を崩さず、市長の意図を伝えなければいけないわけで、でも、そこで停まってしまっては場の雰囲気をぶちこわすことになります。

  

空きっ腹に 60 度の酒だけがたらふく入った状態で、私の頭はこんな風な訳をもってきました。

  

「西の方 陽関を出ずれば」

「故人ありき」

  

お客さんの中にも、この漢詩を知っている人は多く、敦煌という場所柄とこの詩が持つ本来の意味はわかっており、ただ市長がこの詩を吟じた後での中国側の反応から、なにかおもしろい、意味のあることを言ったんだろうという予想は立ち得たわけで、そんな中でのこの訳は、お客さんからも

「おおーー」

と拍手で受け入れられました。

 

もちろん、この他にもうまい訳はたくさんあると思うのですが、立ち往生することなく、とりあえずは市長の意図を正確に伝えることができたと思ってます。

  

やっと宴会が終わりました。

最後はお互いに握手で別れ、会場を出ていきます。

宴会場は、私たちが泊まっているホテルでしたので、団長さんと私とで市長さんをホテルの玄関まで見送ります。

 

市長さんが車に乗って去ったあと、団長が私の肩をたたき、

「ありがとう。ご苦労様でした」

とねぎらってくれました。

 

私は正直、肩の荷が下りたような気がし、何とか役目を果たせたという安心感と、自分の持てるものすべて使い切ったかのような充実感を感じていました。

それでやれやれ… と自室に戻り、部屋に入った途端…

  

そこで記憶が途切れます。

   

気がついたら朝になってました。

私は昨日のままのかっこで、ドアを閉めた一歩先の部屋の中でぶったおれてました。

あれ?<( ̄(エ) ̄;))((; ̄(エ) ̄)ゞあれぇぇぇぇ

  

やっぱ空きっ腹に 60 度は、きつかったみたいです…(爆)

仕事中に酒飲めるって、確かに仕事中に酒飲んでたわけですけど、まぁでも、こーゆーのはもうイイヤ(笑)

って、あのころの俺はほんとーーーに、まじめだったんだなぁぁぁぁぁ

  

ちゃんちゃん
| T/C | 13:15 | comments(0) | - |
必要経費
また中国の添乗の話しです(笑)



日本でも昭和 40 年代の初めごろまでは、あちこちに蒸気機関車が走っていました。

今もイベント列車などは多く走っていますが、あのころはまさしく現役であったわけで、私も何回か乗ったことを覚えてます。



中国では、その蒸気機関車が今でも現役として活躍しています。

もちろん本線上では姿を見ることはできませんが、日本で言うところの第三セクター、つまり地方路線や炭鉱や森林伐採などの専用鉄道では、多くの機関車が日々力走しています。

機関車そのものは、確かにメカニックであるし、失踪、あ、違う、違う… 疾走する雄姿には男の子なら一度はあこがれるのではないでしょうか。



私も旅行屋になってから、様々なツアーを手がけ、ご一緒してきましたが、こうした蒸気機関車がメシの種になろうとは思ってもいませんでしたけどね。

つまりは 「中国蒸気機関車撮影ツアー」 です。



鉄道が好きな連中、も、もとえ、皆さんは大きくふたつに大別できるとされています。

「乗り鉄」 と 「撮り鉄」 です(笑)



「乗り鉄」 とは読んで字のごとく、青春 18 キップでどこまでも行っちゃうとか、乗っていれば幸せ、という一派で、私など片道 2 時間 30 分の遠距離通勤の半分でも分けてあげたいと思っているのですが、世の中そーはいかないです(泣)



対して 「撮り鉄」 は、蒸気機関車を写真に収めよう、と。

で、 「撮り鉄」 もふたつに分かれるそうです。



まず美しく絵になるロケーションで機関車を撮影したい、という作品派と、珍しいタイプの機関車を撮影したいというコレクション派です。

まぁどちらにしても 「撮影する」 という行為自体は同じなわけですので、私にとってありがたいお客さんであることは変わりありません。



この 「撮り鉄」 も、主に国内が活動の場である人たちと、海外にまで出かけるディープな人たちに分かれますが、私がご一緒するのはもちろんディープな皆さんの方です(爆)



季節的にいつが撮影にベストなのかは、それぞれ好みによって違うわけですが、私のお客さんは総じて冬、それも真冬がベストだと考える方々でした。

寒い冬の朝って、吐く息が白くなりますよね。

これと同じで、蒸気機関車が吐き出す白煙は寒ければ寒いほど、きれいにくっきりと映えるわけで、特にバックが雪山なんかだと背景の白と機関車の黒のコントラスト、プラスはっきりくっきりの白煙があいまって非常に (  ・∀・)イイ!! ということになるんだそーです。



で、色々わけがありまして、ある蒸気機関車撮影ツアーに添乗員としてご一緒することになりました。

行き先は中国東北地方。時に 1992 年暮れのことです。



実は中国への機関車撮影ツアーはこれが初めてではありません。

前に 1 回だけ行ったことがありますが、その時はまともな防寒具を用意していきませんでしたのでヒドイめに遭いました。



で、今回は前回よりもさらに真冬。

しかも行き先はかなりな標高がある山あいと強風で有名な街だそうで、これは完璧な用意をしていかないと命が危ない。



んで、登山用品の専門店にダウンジャケットやらを買いにでかけました。

店員さんに事情を話します。



「どれぐらいまで気温が下がるところに行かれるんですか」

「んー 聞いた話しでは零下 30 度ぐらいだそーで、風も強いらしいです…」



( ̄□ ̄;ノノ 30度!?



「すすすす、すると、これぐらいは必要ですねぇ」

と、ごっついダウンジャケットを奥から持ってきました。



すげー厚くて、ダウンなのに重いです(爆)

なんでも南極越冬隊仕様だそーで… (;∀;) アッヒャッヒャッヒャ

値段聞いたら、 10 万だって… …o(;-_-;)o

そんなもん買えるかい。



即座に結論は出ました。

あったんめーです。

しかし…

前回、かなりつらい目に遭ったことを思い出し、それに、もしかしたら今後も、こういう添乗はあるかも知れない…

大体今までの人生で、こうやって裏目に出たことがいっぱいあるんですよね (´;ω;`)ウッ…



と、とりあえずダウンは後で考えるとして、次にブーツを見ました。

前回は借り物のスキー用のを持って行ったのですが、もー全然ダメでした。

足の感覚はなくなるし、第一履き古しのやつですから、底のぎざぎざがなくなちゃってて、滑るんですよ、つるつると(笑)



店員のにーちゃんが、やっぱり奥から持ってきたのは、これまたごっついブーツです。

膝の下ぐらいまで長くて、しかも中身の毛皮がぼわぼわはみ出してるみたいなやつで、カナダのソレルというメーカー製。



んで、アラスカの北極圏犬ぞりレース仕様だそーだじょぉぉ

(;∀;) アーッヒャッヒャッヒャー

お値段は 4 万 5 千円。



その他にもフリースのジャケットやら手袋やら、靴下とか下着なんかも入れると、すんげー額になっちゃいます。



決まりです。

買いません。

いや、買えません(泣)



ここはせめて女房に毛糸のぼーしやらパンツやらを編んでもらって、できるだけ重ね着して… なんて思ってたら、一緒に買いに行った女房がひとこと。



「いいよ。買っても。体が一番大事だもん」



オォォーーー!! w(゜ロ゜;w(゜ロ゜)w;゜ロ゜)w オォォーーー!!



そうです。

思い出しました。

確かにあの時、女房はそー言ったのです。



あのー で、奥さん…

あの時のあなたって、いったいどこに行っちまったんですか?

あの時のあなたと今のあなたって、ほんとに同一人物ですか?



それって私のせいですか?

世の中諸行無常ですか?

って、んなことはどーでもいい!! (`・ω・´)



買いました(爆)

すげー買い物しちまいました。

ああぁぁ これだけの金がありゃぁ、あの CD も、あのスピーカーも、あれもこれも…

そんでもって、あんなことしてこんなことして…

と頭がくるくるまわりましたが、とにかく買っちまいました。



「でもさー 全部は無理としても、少しぐらいは必要経費で落ちるんじゃない?」



と、女房。

w( ̄△ ̄;)w おおっ!

そ、そーだ、確かにその通りだ。

明日、会社行ったら領収書の束をぶつけてやろー って、ふと上司の顔が浮かびました。



当時の私の上司。

M 課長。

この添乗コラムを最初から読んでいただいた奇特な方は覚えていらっしゃるかも知れませんが、日本の歌手の中国公演の際、私に言わずに経費節約のためとかぬかして、勝手に通訳を断っちまったあのヤローです。



翌日。

M 課長に領収書を見せました。



「こここ、これって経費で何とか…」

(   ─┬___─┬) ジロッ

ヒイ



「でもさー お前ががんばって営業して、毎年こーゆーツアー作ればいいぢゃん。そしたらずぅぅぅぅっと使えるぢゃん」



毎年行かせる気かよ、零下 30 度のとこへよー(怒)



「それに日本にいたって、異常気象とかあるかもしれないぢゃん」



異常気象っつったって、南極越冬隊とか北極犬ぞりレース仕様がいるぐらいになんのかよー(魂)

それぢゃ氷河期再来だ、っつうの。

んで、いい年してぢゃんぢゃん言ってんぢゃねーよ。



そんじゃ、全額自己負担かよー(鬼)

お、お願いですから、ちょっとでもいーですから会社でもってくださいよー(真心)



言うだけ無駄でした(笑)



んで、それ着て行きました。

零下 30 度。



さっすがに南極越冬隊です。

零下 30 度で吹きっさらしの中でも全然だいじょぶでした。

足元はちょっとは冷えましたけど、さすがに犬ぞりレース御用達です。

すべってころんで、くわえたばこがほっぺたにひっついちゃって、やけどしちゃったとか、そんなことはありませんでした。



でも、零下 30 度って初めて経験しましたね。

まずライターの火がつかない。

ガスが気化しないんですね。

ぽぽぽぽって (*δ,δ)♪  天使のため息みたいなかわいい火がついたり消えたり。



メモろうとボールペン出しても、インクがでません。

マフラー、顔の下半分に巻き付けたら、鼻と口のかたちに凍りつきました。

ついでにまつげも。



外でおしっこなんかしたくなったら大変です。

ただでさえ小さいおち…(以下検閲済みにつき削除・当局)



ちなみに同様のツアーは翌年もありました(笑) 

そんときゃぁもうばっちりでした。

添乗員の私がお客さんより重装備でしたけど(笑)



それから。

ぱったりと話しはなくなりました。



ツアーは出てるんですよ。

ただ添乗員付でなくてもよくなったわけですね。



そんで、ダウンは屋根裏の収納庫に。

ブーツは中身をはずして、車洗う時の長靴になってます。

(泣)



この前、押入れから整理してない写真が出てきました。

その時の写真もありまして、件の南極ダウンは青なんですけど、 175cm / 80kg の私が着ると、ドラえもん((≡ ̄♀ ̄≡))みたいです(爆)



もう 1 回ぐらい、その手のツアーに添乗してみたいな、と思いますね。

また多少買わなきゃいけないものもありますけど、さすがに南極ダウンは日本ぢゃ着れないしね。

明日あたり、いきなり氷河期に突入とかしませんかね(呪)
| T/C | 15:43 | comments(0) | - |
ある出会い
中国某市の市民フェスティバルに、日本の某歌手が招かれました。

ちゃらちゃらしたタレントではない、音楽一筋で生きてきた筋金入りの人です。

で、この公演の手配一切をうちの会社で引き受けることになり、私がその担当になりました。



とかく、思ったようにコトが進まないのが中国ですが、何とか手配も完了し、例によって添乗員ということで私がご一緒します。

現地に着けば、主催者側との打ち合わせやコンサート会場の設営など、やることは山ほどあるわけで、当然中国側から通訳が出てくるものと思っていましたが、当時の私の上司が経費節約のために、



「日本から行きますから、通訳は不要です」



なんて、断っちまったようなんです(笑)

私はそれを現地に着いてから知りました(爆)



んで、否応も無しに通訳の真似事をする羽目になりました。

幸いなことに私自身、音楽が好きで(このサイトの Rocks も読んでネ)、北京の大学にいる時はその手の本も読んだりしてましたので、用語などに困るようなこともなく、まぁ何とかなりました。



コンサート初日。

その歌手 S さんとバックバンドのメンバーたちと一緒に会場入りします。

この時のバックバンドは、ギター、ベース、キーボード、ピアノ、ドラムスの 5 人編成でもともとはブルース系のバンドだそうです。



バンドのリハーサルが始まりました。

S さんはまだ楽屋ですので、この時のリハーサルはブルース系の曲で占められ、久しく生の音に接していなかった私は役得を思う存分味わったのでした。



リハーサル終了後、楽屋に戻ると見慣れない中国人が 5 〜 6 人待っています。



「ん?」



この兄ちゃんたち、皆長髪で細身の G パンにブーツなんか履いちゃってます。



「あのー どちら様で…?」



待っていたかのようにその内の一人がしゃべり出しました。

地元某市のセミプロバンドのメンバーだそうで、日本のプロミュージシャンが来る、という噂を聞いたのでぜひ薫陶を受けたく訪ねてきた、と。



一応、私たちは某市から招かれた公賓であり、従ってコンサート会場もそれなりの警備というか、公安局員が何人か入り口にいたはずなのですが、どーやって中に入ってきたのか…

ま、まぁその辺はさておき、日本のバンドのメンバーたちにその旨を伝えました。



(ノ゚ο゚)ノ オオオォォォォ…



思わぬ珍客の来訪にメンバーたちは驚きつつも、喜んでお話ししましょう、と気さくに応じてくれました。



さっそく楽器ごとに話しが盛り上げるはずですが、そこは日本人と中国人。

お互いの言葉がわかりませんよね。



あちこちからお声がかかります。

その度に通訳するのですが、音楽家同士が話すことですから、日本語で言われたって意味がよくわかりません(爆)

四苦八苦しながら話していると、その内、それぞれが楽器を弾き始めました。

言葉よりも実際にやってみせて理解させようというわけですね。



よく言われることですが、国が違っても専門家同士の話しというのは不思議に伝わるものです。

何年か後、アメリカなどに企業訪問のツアーで添乗しても、日米の技術者同士が身振り手振りで話しをし、意志が伝わっていく場面が何度もありました。



日本のプロたちの演奏を食い入るように見つめる兄ちゃんたち。

自然発生した、草の根レベルでの相互交流であります。

小一時間もそうした時が続いたでしょうか。

最後にお互い握手をして別れました。

こうした 【作られた】 ものではない場に身を置くと、いろいろ辛いことはあるものの、この仕事についた、大げさに言えば喜びを感じたりします。



兄ちゃんの一人が、



「ところで、あんたは何?」



みたいに私に聞いてきます。



「え、え〜っと… 添乗員っつうか、通訳見習いというか…」

「そっか。通訳してくれてありがとう。俺たちはここでライブやったりしてるから、もし時間があったら、あんただけでも来てくれよ」



と、店の名前と住所を記したメモをくれ、私にも握手を求めてきました。

うれしかったですね。

こーゆー時の中国人って、ほんとにフレンドリーです。

今から思えば、この兄ちゃん、ちょい太めでラウドネスの某 Vo にクリソツでしたが…(笑)



コンサートが始まりました。

私はステージ横から見ていましたが、客席前方にさっきの兄ちゃんたちがじっとステージを見つめているのを眼にしました。



当時の中国は、こうした場合のチケット配分は公的機関を通じて行われる場合がほとんどでしたので、この兄ちゃんたちのような浮き草稼業的な連中には、ほとんど入手できないと思うのですが、どーにかして手に入れたんでしょうね。

さっきも、まさかチケットを持っているなんて思わなかったものですから、何とかしてこの兄ちゃんたちにコンサートを見せてあげたい、なんて思っていたのですが、余計な心配だったようです。



結局、このツアーでは彼らの店に行くことはできませんでした。

後ろ髪引かれる思いで帰国したわけですが、まぁこの仕事を続けている限り、某市ってわりとポピュラーな街だし、いつかはまた行けるだろう、ぐらいに軽く考えてました。



んで、 3 ヶ月後にまた行くことになりました(笑)

夕食を取り、お客さんをホテルに案内。

部屋割りをして翌日のスケジュールを発表し、それから一部屋ずつ託送荷物は来ているか、電気や水まわりは大丈夫か、とまわっていきます。



最後に幹事さんに、



「すいません、ちょっと打ち合わせがありますので 1 、 2 時間ほど部屋を空けます」



と伝えると、



「なんだよぉ〜 イイトコ遊びに行くんだろぉ? 俺も連れてってくれよぉ〜」



違うっつうに。

まぁイイトコはイイトコだけどね(爆)



兄ちゃんからもらったメモを頼りに店を探します。

それらしいところが見つかりましたが、

「此房出賣(売家)」

の張り紙が。



あらまー (´・ω・`)



あたりをしばらくうろうろしてみましたが、やっぱりここのようです。

そこらのトッポイ(死語・笑)兄ちゃんに聞いてみました。

彼の言によると、しばらく前につぶれた、とのこと。



この話しを書くために、いつごろの添乗か、記録をひっくり返してみました。

1992 年のことでした。



1992 年というと、中国ハードロックの雄・唐朝が 1st アルバムを発売した年です。

まさしく中国洋楽(ん? 変な日本語だな…)の黎明期であったのかも知れませんが、こうした音楽はまだまだ偏見視されていたころです。

あの時の兄ちゃんたちも、どこで何をしているのやら… 



改革開放、そして経済成長の大きな流れの中で、中国人の価値観も多様化し、 【洋楽】 や 【 ROCK 】 にも、多くのバンドが台頭してきています。

もう一度、会いたいですね。

そして酒でも飲みながら彼ら中国人ミュージシャンの話に耳を傾けたいものです。
| T/C | 15:42 | comments(0) | - |
添乗員は飛行機がキライ
私は飛行機が嫌いです。

怖いからです(爆)



航空機事故に遭う確率は、交通事故のそれよりも低く、またきちんとした理論で設計され、 「飛ぶ」 ことが科学的に立証されていても、上空でぐらぐら揺れるととたんに恐怖心に駆られます。



私の添乗員としての渡航回数は 80 回を越えましたが、行き先は圧倒的に中国が多かったです。

中国の国内線ほど怖いものはありません。

さすがに最近は改善されつつありますが、ついこの間まで旧ソ連からのおこぼれであるツポレフとかイリューシンとかが現役で就航してましたからね。



出発が近くなり、しかも今度の日程で国内線航空機での移動があると、気が滅入ります。

国際線はまだいいんですよ。

日本から出る場合などは日本側に整備を委託しますから。

往復の路線であれば、これだけでも危険が半分去ったことになります。



航空機事故の多くの場合はヒューマンエラーだと言われてます。

パイロットが見落としたりとか、整備不良が発見できなかった、あるいは勘違い、思いこみ、そんなものも遠因になったりするんですね。



私は学生時代の数年を、北京の大学で過ごしました。

そうした経歴から誰も行きたがらない中国への添乗がまわってくるケースが多かったわけですが、中国で暮らした数年間、中国人の恐ろしいほどのいい加減さを身にしみて経験している私は、



「まさか、あの時の、あーゆーいい加減なやつが整備してたりしてないよな」



とか



「あんなやつはパイロットになんかなれっこないよな、そりゃそーだよ」



と自分に言い聞かせ、祈るような気持ちで機上の人となるわけです。

ここでは中国への添乗で経験した、飛行機にまつわることを書いてみたいと思います。



巻之壱 “安”
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シルクロードの奥地、タクラマカン砂漠のオアシス小都市・和田(ホータン)に、大学の地理の先生方とご一緒した時のことです。

新疆ウイグル自治区の区都・ウルムチから飛行機に乗り、タクラマカン砂漠ど真ん中の小都市アクスを経由して、ホータン行きというルートです。



しかも飛行機は悪名高いソ連製のアントノフというプロペラ機。

機材の種類を示す中国語の略称は“安”です。

もうそれだけで、“安”心できないわけですが、これも仕事です。

いやいやながらも笑顔でお客さんとともに乗り込みました。



「ぶうううううん」



“安”は、のたのたと滑走路を走り、どっこいしょ というかけ声でもかけそうな感じで離陸しました。



タクラマカン大砂漠の上空を、“安”はひねもすのたりのたりと飛んでいきます。

できるだけ気を紛らわそうと、普段よりよけい愛想良くお客さんに話しかける私。



無事、経由地のアクスに着きました。

ここで“安”は給油。

我々は空港の待合室で名産のハミ瓜に舌鼓みを打ちます。



やがて“安”は再びよたよたと走り出し、今度はよっこらしょ ってな感じで離陸しました。



まぁ飛んじゃえば非常に安定してます。

ぴくりとも揺れません。

お客さんの先生方は、上空から見る生の砂漠の光景に眼を奪われています。

やれやれ… 無事にホータンに着きそうだな、と思った時、操縦室のドアがかちゃっと開きました。

すると中から中学生ぐらいの少年が出てきました。



「?」



こいつが操縦してるの?

ま、まさかなぁ…

きっと異常なほど童顔のパーサーか何かに違いない。



自分の目の前の光景を、いい方へ、いい方へと無理矢理に解釈するのは、添乗員を始めてから身に付いた自己防衛本能のひとつですが、この時も、そのように無理に思いこみました。



すると、また かちゃ とドアが開き、今度は 20 そこそこのあんちゃんが出てきました。

そいつの服装を見て、私はどうやってこの現実をねじ曲げるか、んもう脳ミソフル回転でぶんまわしました。



そいつは、洗い晒しの、ところどころシミのついたワイシャツを素肌に来て、ボタンはみっつめまで開けて、つまりはだけちゃってるわけですね。

汗でぴったりくっついちゃって、薄い胸板が丸見えです。

そんでもうズボンときたら、



「こちとらこの世に縫製されてからこの方、プレスなんざ一度もしたことないぜ」



みたいな、行灯っつうか、ただの布の筒というか、とにかくそんな感じで、しかも裾は膝までまくり上げられてます。



極め付きはその足。

ちびたサンダル履いてました。

しかもベトコンが履いてたような、ぺったんぺったんのやつ。



操縦室のドアは立て付けが悪いのか(って、リフォームでもするんかい!)、それとも閉めかたが悪かったのか、恐らくその両方でしょうが、ぱたんぱたんと開いたり閉まったりしてます。

そぉ〜っと中を覗いてみると、中には誰もいませんでした。



こここ、こいつらが転がしてたのかあああああああ



もはや 【操縦】 なんて高尚な言葉は使いません。

【転がす】 で十分です。

しかも、こやつらが 【転がし】 ている飛行機に乗っているのは



ワ・タ・シ・・・



(泣)



「いーんだよ、服装なんて。びしっと制服着てるやつにだって、いいかげんなやつはいるじゃん。そそそ、そんな見かけで判断しちゃいけないよ」



と、得意の性善説的解釈を試みましたが、コアの私から次なる問題が提出されました。



「操縦室に誰もおらず、いったいこの飛行機はどーやって転がされておるのか」



だだだ、だからさー自動操縦じゃん。

いくら“安”だって、それぐらいの智恵はあるっすよ。



けど、本当にそうか。

【惰性】 でただ飛んでるだけではないのか。



だめです。

コアの私に負けてしまいそうです。



それでこいつらは操縦室留守にして何してるのかと言うと、後ろでスチュワーデス相手に、中国を礼節の国たらしめている漢民族の見目麗しい食習慣、つまり



「ひまわりの種むさぼり食って、殻はぺっぺぺっぺ吐き散らすんだぁぜぇ〜」



を堂々と敢行して、長年の風雪&酷使に耐え抜いた、こいつらの神聖な職域である“安”に、食べカスの化粧を施していました。

ハムスターのごとき食欲でひまわりの種を食べ終わった彼らの次なる行動は、そうです。



満腹で一服ですね、

ってやな語呂だなぁぁ。



二本の煙突がくっちゃべってるみたいです。

もうすっぱすっぱです。

私もかなりのヘビースモーカーですが、一応 TPO はわきまえてるつもりなんで、こんな狭いとこじゃ吸わないっす。



指を火傷せんばかりに吸ったあとは、足元にぽい。

さすがにぺたぺたサンダルでもみ消してますけど、彼らには老体“安”をいたわる心はこれっぽちもないんでしょうね。



っていうか、お前らほんとにパイロットなのかよおお…



やっと満足してくれたハムスターどもは、ぺたぺたとサンダルの音も軽やかに飼育室、じゃなくて操縦室に消えていきました。

やがて“安”は徐々に降下し、無事ホータンに“安”着。



心底ほっとした私ですが、でも帰りもあるんですよね。

ウルムチ/ホータン間なんてこのフライトしかないのですから、きっと帰りもこいつらに違いない。

今度会ったらこいつら、どーしてやろう… なんて思ってましたが、ホータンからの帰りは違うクルーでした。



一体、どーゆースケジュールで人員のアサインを決めているのかよくわかりませんが、とにかく別人でした。

あ、帰りの人たちはまともでしたよ。

ワイシャツはだけて、ズボンの裾たくし上げてたけど、だけど、だけど、ぼーしはかぶってたもんね(爆)



巻之弐 「飛機壊了」
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中国が世界に誇る一大景勝地のひとつ・長江三峡。

険峻な山並みの間を縫うように流れる長江をクルーザーで下ってゆく 「三峡くだり」 の舞台として有名です。

世界最大級といわれる 「三峡ダム」 の建設も着々と進み、それがために長江上流の景観も大きく変わろうとしている昨今。

機を見るに敏な日本の旅行会社が、この千載一遇のチャンスを逃すはずがありません。



「これが最後 中国・三峡くだり」



とか



「二度と見られない 中国・三峡の絶景」



みたいなノリで、たくさんのツアーができました。



確かに景観は大きく変わるのですが、別に三峡そのものがなくなっちゃうわけじゃないんですよね。

ダムができたらできたで、新たな景観ができあがるわけで、ダム完成後も三峡下りが残ることは確かです。

私も当時は営業の端くれだったもので、主なお得意さんにお声がけし、いくつかツアーを作ることができました。



ある三峡ツアーに添乗員として行った時のことです。

このツアーは割りとアクシデント続きで、最初に上陸観光する予定だった 「赤壁(劉備玄徳の蜀軍と孫権の呉軍が連合し、曹操率いる魏の大軍を打ち負かした戦い。諸葛亮孔明の神策が功を奏したと言われている。三国志のハイライト場面のひとつ)」 では、天候不良のため接岸することができず、やむなく通過。



また長江の異常渇水のため、最終目的地の四川省重慶市まで行くことができず、重慶からガソリンエンジン搭載のジェットフォイルを呼び寄せ、それに移乗して行ったりもしました。



やっとたどり着いた重慶で一泊。

翌日の国内線航空機で上海に戻るのですが、何かいやーな感じです。

こんなバタバタしちゃったツアーで、国内線に乗るのは気が重いです。



しかし機は何事もなく、上海に到着しました。

上海でのツアー最終日は名物料理などに舌鼓を打ち、翌日の中国東○航空機 ヾ(^^; 伏セ字ニナッテナイ で、一路帰国の途に。



ふわりと軽やかに浮かび上がった中国東○航空機 ヾ(^^; ダカラ伏セ字ニ… はどんどこ高度をあげ、やがて水平飛行にうつりました。

やれやれ… と思った時、唐突に機内アナウンスが流れました。



「飛機壊了」



え〜…

だいたい字面で意味はわかっていただけると思うのですが、直訳しちゃいますと、



「飛行機こわれた」



(笑)



って言うか、意訳のしようもないんですけどね。



( ̄□ ̄;

あ、あの〜 「こわれた」って、いったい どーゆー…



まわりの中国人乗客たちも、あまりのとーとつさに



「あ? なに?」



みたいな感じです。

乗客のひとりが通りかかったスッチーをひっ捕まえ、今のはどーゆー意味だ? なんて聞いてます。



「飛機壊了。返回上海!」

「飛行機こわれたから、上海に帰んの!」



( ̄▽ ̄;;

い、いや、ですから、そのおお〜



ざわつく機内。

そりゃ、ざわつきますわな(笑)



私の横に座っていたお客さんも

「ん? なんだ、なんだ、どーしたの?」

と私に聞いてきます。

こーゆー時、私はどー答えればいいのでしょう…



「え、え〜っと、ちょっとエンジントラブルで上海に戻るみたいですね」

「お、おいおい、大丈夫なのかよおおおお(慄)」



って、俺に聞くなよ、俺によ。

俺が知りてぇ〜んだよ、んなこたぁ!



なんてことは口が裂けても言えません。

「大丈夫ですよ。天気もいいですからね」

って、別に天気は関係ないじゃん(爆)



大いなる不安を人数分乗せた中国東○航空機 ヾ(^^; ヤメナサイッテ は、あらよっと みたいなかけ声もろとも機首をくるりと転回。

また上海に戻っちまいやがった。



当然ですが中国の出国手続きはしちゃってますので、ゲートで待機します。

私はインフォメーションカウンターにへばりついてましたが、そこの係のおねえちゃんがちょっとかわいい子で、いろいろ話しているうちに、



「ねぇ今晩メシでも喰いに行こうよ」



なんて誘ってみたら、



「フフフ… あなたが今晩上海に泊まるならいいわよ」



なんて…

もう出国してる! っつうの!! ヽ(`Д´)ノ



そ、それはさておき…

結局、使用機材を変更するみたいです。



そーしてほしいです。

だって、一度離陸しちゃったのに、引き返すほど調子悪い ひこーき (もはや ひらがな で充分)に乗りたくありません。

もうおうちに帰りたいです。

って、これ乗らなきゃ帰れないんだよね(哭)



機材繰りにけっこう時間がかかるようで、その間、お客さんには中国東○航空 ヾ(^^; ダカラネ… より配られたミールクーポンで食事なりをしてもらいました。



やがて搭乗のアナウンスが。

もとの座席番号のとおりに座ります。

シートベルトをしつこいほどしっかりと締め、中国東○航空機 ヤメロヨー( ´∀`)σ)Д`)プニュ はエンジンの音も高らかに大空に舞い上がりました。



「ねぇ、添乗員さん…」



隣のお客さんが私をつつきました。



「この飛行機、前のと変わってるんだよね…」

「えぇ 機材変更する、って言ってましたから変わってますね」



「えらい親切だよなー 俺が捨ててったゴミまで積み替えてくれてるよ。ほら、これ」



ちゃ、ちゃんちゃん…

ヽ(τωヽ)ノ モウドーニデモシテ…



巻之参 静寂と暗黒の中で
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私が海外に出る時はたいていお客さんと一緒です。

なんつったって添乗員ですから。

しかしたまにはひとりで行くこともありまして、この時は確か、大型団体の打ち合わせとか現地下見か何かで行った時のことです。



昼間、北京で仕事を済ませた私は、その日夜の最終フライトで大連へ。

搭乗ゲートから沖留め(ゲート直結ではなく、滑走路の端っこに駐機してること)の ひこーき にバスで向かいました。



バスから降りてみると、



( ・ω・)モニュ?



あたりは真っ暗です。

確かにひこーきは停まってますが、誇らしげに描かれた航空会社のロゴマークを照らす垂直尾翼の照明もなく、夜間飛行の際に転倒、じゃなくて、点灯するはずの航空灯もついてません。

なによりアイドリングしているはずのエンジンから、何の音も聞こえません。

すんごい静かです。



(・ω・ )ムニュ?



い、いやな静けさですね… ここにししおどしでも置いたら、



「こ〜〜ん」



と、澄み切った和の心を伝える音色が響き渡ったことでしょう。



我々をゲートから乗せてきたバスの運ちゃんも、



「ほんとにここでいいのか?」



みたいに、指示書と機体ナンバーを見比べてますが、彼なりに納得したのでしょう。

首をかしげつつも帰っていきました。



あとに残された私たちは、え〜っと…

とりあえず機内に入るしかないですから、恐る恐るタラップを上っていくと、煌々と照らされているはずの機内にも、何の光明もありません。

スッチーが映画館よろしく懐中電灯で席まで案内してくれました。



「いったい、この ひこーき、飛ぶのか??」



横の中国人のおっさんも



「おい、これ一体どーなってんだ」



だ、だからさー 俺に聞くなよ、俺に…

第一、俺はどっから見たって中国人にゃぁ見えないだろーが!

そーゆー奴に中国語で聞くなああああああ



って、私は以前、中国人に



「私は中国人ではありません」



って言ったら、



「あー ごめん、ごめん。お前モンゴル人かぁ」



と言われたことがあります(爆)



そ、それはさておき。

いつまでたっても静かな ひこーき の中で、静かに座っているのにも限度がありまして、その間、何の説明もないし、暑いし、のどは渇くし、たばこは吸いたくなるし、もーパニック寸前です。

スッチーに聞いても、



「わからない」

「ちょっと待ってなよ」



としか答えず、埒が開かないばかりか、開くのは口ばっかりでしかもふさがりません。



そのうち、みんなでたばこ吸っちゃおうぜ、ということになり(笑)、スパスパ吸い出しましたので、私も一緒になってスパスパ吸いました。

離陸して水平飛行になるまではたばこは吸えないのですが、もー関係ないもんね。

すっちー(これももはや ひらがな で充分)が



「ちょっとー たばこ吸わないでよ〜」



なんてほざいてますが、かんけーないもんね。



結局、私たちは ひこーき から降ろされ、またゲートに戻ってきました。

原因は 【機材不良】 だって…



って…

んなことは最初からわかってただろーがああああああ

(ノ ゚Д゚)ノ ====┻━━┻ ←怒りのあまり、ちゃぶだいひっくり返すの図。



そして待つこと数時間。やぁぁ〜っと北京から飛ぶことができました。

機材が変更されたのか、それとも



ナカヌナラ

ナカセテミセヨウ

ホトトギス



みたいにエンジンを泣かせた、もとえ、鳴かせたのかは定かではありませんが、いーんです。飛びゃぁ。

中国北○航空機 ヾ(^^; (オ好キナ言葉ヲ入レテ下サイ) は、深夜の渤海湾上空を粛々と大連に向けて ひこう して行きます。



確か深夜の 2 時ぐらいだったと思いますが、大連・周水子空港に到着しました。

いつもならたっぷり待っているタクシーも、さすがに 1 台もいません。

それでも辛抱強く待っていた見知らぬ人の迎えの車に、うまいこと便乗して行ったのか、中国人乗客たちは次々と消えていきます。



こーゆー時は、誰も私のことを中国人扱いしません。

そして誰もいなくなった(笑)



仕方ない…

ここで夜を明かすか…



無色透明のため息をついた私の目の前に、とーとつにタクシーが姿を現しました。

もう何でもよくなった私はそのタクシーに乗り込み、予約してあるホテルの名を告げました。



何だかすごい饒舌な運ちゃんです。

もう、しゃべくりまくってます。

深夜だっつうのに、すげーハイテンションです。

適当に相槌を打っていたのですが、どうもさっきから街中へ向かう道とは違う道を走っているような気がしてなりません。



も、もしや雲助タクシー? ガ━━ΣΣ(゚Д゚;)━━ン!!

考えてみりゃぁ、当然のシチュエーションかも知れません。

うかうかとタクシーに乗ってしまった、自分の甘さを恨みましたが、もうどうにもなりません。タクシーはどんどん裏道に入っていきます。



閉じることを忘れたかのような、運ちゃんの口が停止しました。

ついでに車もとめ、エンジンもライトも消されました。



来るな…



私は内ポケットに右手を伸ばし、常時携帯しているトカレフの所在を確かめ… なんてことはできるはずもなく、ただただたばこを吸っていました。

振り返る運ちゃん。



「すまん、こんなことをするつもりはなかったんだが…」



え、え、ま、まさか俺、殺されちゃうの? ((((;゚Д゚)))



1 時間の後、タクシーは何事もなかったかのように走り出し、無事ホテルに着きました。



この運ちゃん、振り返った後、延々自分の身の上話をしだし、如何に自分が惨めな境遇にいるか、家族を養うのにどれだけ苦労をしているか、こんな深夜に車を走らせているのも家族のためで、明日も早朝から車ころがすのだ、と。

ん〜 な、なんかすごい借金があるみたいです。



それで、深夜の到着であんたが疲れているにもかかわらず、こんな人気のないところに連れてきたのも、巡回中の公安局員か何かにつかまったらヤバイ(無免みたいでしたネ)からだ、と。



要はチップをはずんでくれ、と。

こーゆーことだったんですね。

ほんとに疲れていた私ははいはい、といい加減に聞いて、どーじょ、みたいな感じで料金を倍払ってやったっす。



この時のことは今まですっかり忘れていました。

サイトに載せるために、思い出しつつ書いていたのですが、ふと思います。



あの時、おとなしく料金を倍払ったからよかったようなものの、もし拒否したら、どーなっていたんだろう、って。

やっぱりただじゃすまなかったですかね…



ひこーき がちゃんと飛んでさえくれれば、ちゃぁ〜んと大連に着いていたわけで、

(´;ω;`) ウッ… やっぱり ひこーき は嫌いです…
| T/C | 15:41 | comments(0) | - |
ぷぅ〜
1995 年、日本航空がベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)に就航した時のことです。

かねてよりベトナムには一度行ってみたいと思っており、趣味と実益を兼ねてベトナムへの団体旅行を作るべく営業を進めていたのですが、うまい具合にツアーができました。



出発日当日。

どうも朝から腹の調子が悪く、何回かトイレに行っていたのですが、まさかあんなことが起きるなんて夢にも思っていませんでした。



え〜 これから書くことは非常にアレであり、ナニでありますので、その方面に弱い方、またそういった内容をいかに個人のサイトとは言え、ネットという公の場に出すとは何事だ! と思われる方は即刻 別サイト にでも避難してくださいますようお願いします。



昼食を食べてから出かけようと思っていた私は、当時会社がありました都内の某盛り場周辺を歩いていました。

その時、お腹が



「ごろごろ」



思わず力が抜けた私は、ちょいと放屁をかまそうと微妙な力加減で放出したところ…



え〜

この後、私にいかなる悲劇が襲ったか、だいたいご想像がつくかと思いますが、もう笑うしかないです。

人間、あんまり悲しいと笑う、って言いますしね(言わん)



あ、でもそんなに大量、も、もとえ、たくさん、い、いや、えっと… 

じゃないですよ。ほんのちょっとです(笑)



うおー

これから成田に行かなきゃならないのに、どどど、どーしよう…



って、迷ってる場合じゃありません。

だいたい私、添乗に出る際はブレザーにチノパンみたいなかっこですから、そこらの G パン屋とかに飛び込んで新しいのを買っちゃえばいいのですが、その前にパンツを何とかしなきゃならん!



で、トイレに入りました。

もちろん被害を最小限にとどめるため、大股でどこどこ歩かず、そろ〜 そろ〜 と歩いて(爆)



うまい具合に個室が空いてました。

そろ〜っと脱いで恐る恐る見た私の目に入ってきたものは… 



にじんじゃってます、ズボンに(核爆)

んで、当然のようにパンツにも… 



こういうのを悲喜劇って言うんだろうなぁぁ

へへへ… 



なんてたそがれてる場合ぢゃありません。

パンツ脱いで、トイレットペーパーでぐるぐるくるみ、いつも持ち歩いている傘用のビニール袋に押し込めました。



え?

なんで、ビニール袋なんて持ち歩いてるのか、って? 



私は濡れた傘を持ち歩くのが苦痛なので、さっさとたたんでビニール袋に入れてカバンに突っ込んじゃうんです。

決してアヤしい目的ではありません(笑)



次にできるだけズボンのにじみをふき取り(すいません、すいません)、

素でズボン履いて(ごめんなさい、ごめんなさい)、

G パン屋に行きました。すんごいスカスカで、外に出た時は思わず声が出ちゃいましたが…(呆)



すぐに裾上げしてくれたんでラッキーでしたが、問題はこのズボンですよね…

パンツは捨てちゃってもどーってことないですが、さすがにズボンがない、というのは女房にばれちゃうし…

ばれたら、ただでさえバカにされてるのに、余計バカにされちゃうし…



あ、いけねぇ

もうこんな時間だ、成田行かなきゃ… 



んで、パンツはビニールにくるんだまま、ゴミ箱に直行(そうじのおばちゃん、すいません、すいません)、

ズボンはコンビニで買った家庭ごみ用ビニール袋に何重にもくるみ、スーツケースに放り投げました。



当時の日本→ホーチミン線は、関西国際空港から出るんです。

それで一度関空に行って、乗り継ぎするんですね。

で、お客さんと一緒に搭乗ゲートで待っていたら、使用する航空機が機材故障のため遅れる、というアナウンスがありました。



やーな気分です。



使用機材が変わったりして…

それでスーツケースを積み替えて、その時に私のスーツケースが落ちちゃって、ぱかっとふたが開いたりして…

そんで中からおぞましいズボンが出て来ちゃったりして…

荷物にはすでにタグがついてますから、誰の荷物かわかります。



どどど、どーしよー…



6 時間ほど待たされました(爆)



結局、機材は変更されましたが心配された、更なる悲喜劇は発生せず、深夜のホーチミンのホテルで無事、荷物を開けることができました。

開けた時、ぷ〜んと芳香が漂っちゃったらどうしようと思っていたのですが、厳重に密封したおかげか大丈夫でした。



もうここまで来たら、やることはひとつですよね。

そうです。

知らん顔して、そのままホテルのランドリーに出しちゃいました(笑)

きれーになって戻ってきました。

うれしかったです。



その時のベトナムツアーは非常に順調でして、我々についた地元のガイドさんが HO さんという、女の子。

日本語が大変お上手でしたので助かりましたが、すんごい美人でした(嬉)



このツアーはプロカメラマンを講師に、市井のカメラ愛好家を集めての撮影ツアーでして、お客さんの中から、 「 HO さんにモデルになってもらおう」 との声が飛び出し、翌日はベトナムの民族衣装であるアオザイを来てもらって、公園などでモデル撮影をしました。



アオザイって生地が薄いですから、太陽の向こう側だとスケちゃうんですよね。

私は添乗員ということで、時にレフ板(反射板)など持ったりして、お客さんたちとは逆方向にたったりしましたが、いやー 役得役得(喜)



彼女にしたら夜間の緊急連絡先のつもりなのでしょう。

自宅の電話番号など教えてくれましたが、何の前触れもなく、いきなり



「私の電話番号です」



とメモを渡されましたので、

「い、いや、 HO さん、僕には妻子が…」

なんて、取り乱さなくてよかった。今でもその電話番号は私の PDA の中に入ってます(爆)



念願であったベトナムの街も見ることができたし、お客さんの反応も上々、利益もそこそこ出せます。

まずはよかった、よかったと帰国してきました。



帰宅後、私のスーツケースを開けた女房がひとこと。



「ねえ 何でチノパン増えてるの?」



ししし、しまった…

ズボンが一本増えてたんだ…

すっかり忘れてました。



「いいい、いやー ベトナムは暑いぢゃん ちょうど出発するときに会社のそばの G パン屋でバーゲンやってたからさー 予備に 1 本買ったのよ」



「ふ〜ん…」



今イチ納得いってない顔でしたが…

まさか…

ぢつはあんなことがあったなんて、思いもしないでしょーね…



今はどーだか知りませんが、昔は一応好きになって結婚までした相手が、いい年して○○○もらしちゃった、なんてことは…



−y(; ̄∀ ̄)。o0○
| T/C | 15:39 | comments(0) | - |
線路越しの和解
満州開拓青少年義勇軍
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第二次世界大戦は多くの悲劇を生み、今もなおその傷跡に苦しんでいる方、また忘れがたい心の傷をおわれた方がたくさんおられます。



中国残留孤児問題もその中のひとつであり、いわゆる「孤児」を生んだ原因のひとつに「満州開拓団」の存在がありました。

一般の開拓団員が 22 万人、そして当時 15 歳前後の少年たち、約 10 万人が「満蒙開拓青少年義勇軍」として、国策のもと、満州へ渡りました。

開拓団そして青少年義勇軍がたどった悲惨な結末や、満州移民政策の是非を論ずるには、あまりに問題が大きく、またすぐれた書籍や WEB サイトがありますので、そちらをご覧いただくとして、ここでは旧青少年義勇軍の旧地再訪の旅に同行した時のできごとを書きたいと思います。



当時の青少年義勇軍は出身地ごとに中隊編成され、茨城県の内原訓練所に入所、そこで厳しい訓練に明け暮れた後、満州に渡りました。

この出身地ごとの中隊は、通称「郷土中隊」と呼ばれ、統率者である中隊長の名前を隊名にすることが多かったようです。

○○県△△中隊、というようにですね。



15 〜 6 歳といえば、現代でも血気盛んな年頃であり、国策の美名に突き動かされ、純粋な使命感に燃えているだけに、意気軒昂たるものがあったことでしょう。

そうした少年たちがひとところに集められ、厳しい毎日を送るわけですから、家族から離された寂しさや、満州での不安、焦燥感なども手伝い、中隊同士のいざこざは日常茶飯事であったようです。



1989 年 9 月、私が添乗員として同行した A 県 H 中隊と H 県 M 中隊も、そうした経験をもっていました。

そして何の因果か入植した満州の村が隣どうしで、村境の鉄道線路で殴り合いどころか刃傷沙汰にまで及んだ、とのこと。

通常は内原での訓練が終了し、満州に渡った後はすぐに入植地に向かうケースが多かったようですが、この A 県 H 中隊は渡満後も訓練所に入れられ、さらに厳しく訓練をされました。

つまりは札付きの中隊だったわけですね (^^;



実は、 A 県 H 中隊の皆さんとはこれで 2 回めの旅行でした。

初めての時は、満州側の訓練所である、黒龍江省一面坡特別訓練所という恐ろしげな名称の訓練所跡や、入植していた村などに行き、皆さんから見れば孫のような年の私を非常にかわいがってくれました。



旅行中、さきほどの H 県 M 中隊との話しを聞かされ、日本に命からがら帰ってきた後もいがみあいは続いていた。

しかし戦後 50 年経とうとしている今、物故する人たちも多く、ここらで M 中隊とは手打ちをしようではないか、という声があがっていることを聞かされました。



手打ちをしようという声が出るまで、じつに 50 年近くもかかったわけですが、 50 年間ずっといがみあってきたわけではなく、生き延びることだけに必死であった時代を生き抜き、ようやく旅行に出る余裕が出てきた今だからこそ、浮かび上がってきた声なのかも知れません。

両中隊の間では、すでに基本的なプランはできあがっていたらしく、あとは具体的な日程を調整するだけでした。



忘れる水
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そして出発の日。

空港では両中隊からの参加者が全員揃いましたが、やはり照れくささや多少のわだかまりも残っているのかも知れません。

自分の中隊だけで固まってしまいます。

本来、添乗員である私が両者の仲を取り持つようにたちまわるべきなのでしょうが、この皆さんが持っている重い経験や、同じ日本人でありながら刃傷沙汰にまでなった相手との和解という目的を考えると、私如き若輩者が軽軽に動くよりは、自然の流れに任せようという気になっていました。



中国旅行の食事は、当然中華料理になるわけで、中華料理とはご存知のように丸テーブルでとります。

この丸テーブルというのが実にいいんですね。

自然と向かい合うし、大皿の中国料理をそれぞれが取り分けたり、酒をつぎあったりして、やはり一体感が生まれてきます。

この旅行も、両中隊代表者の絶え間ない気遣いもあり、同じ中隊同士で固まらないように、自然に皆さんが座り、和解の日に向け土台ができあがりつつありました。



一行は黒龍江省の省都であるハルビン市に到着、ここからふたつの中隊はそれぞれの旧地に向かい、その後和解の地で合流する日程でした。



ハルビンからの分団行動に際して、 A 県 H 中隊には私が、 H 県 M 中隊には大学を卒業したばかりだという女性の現地ガイドが同行することになりました。

見るからに頼りない、おちゃらけガイドで、脳裏に一抹の不安がよぎりましたが、まぁ 2 〜 3 日程度のことであるし、ハルビンでの受け入れ先である現地旅行社のスタッフもしつこいほどブリーフィングをしていましたので、このまま進めることにしました。

日程では M 中隊がその日の夕方にハルビン発、私が同行する H 中隊が同日の深夜にハルビン発というものでした。



ホテルから M 中隊を見送り、私は H 中隊の皆さんと夕食を取っている時、現地旅行社のマネージャーが青い顔をしてやってきました。

新米ガイドの手際が非常に悪く、また列車の発車番線が変更されたことも手伝い、結局予定していた列車に乗り遅れてしまい、こちらに帰ってくる、とのこと。



「やってくれた…」



とにかく急いで対策を立てねばなりません。

時刻表と首っ引きで代替案を考え、いずれにしても今日の再出発は無理なのでホテルを探し、現地でのスケジュールの組み直し、 H 中隊の合流スケジュールの訂正、それらを現地旅行社のスタッフと手分けして行い、 M 中隊がホテルに戻ってきたら、まずお詫びをして代替案を提示しなければなりません。



ところがなにひとつうまく進みません。

ひとつには中国の列車予約が日本ほどシステマティックではないということ。

その場で空席がわかるなんていうのは望むべくもありません。



そしてその日はホテルも満室で、しかも最悪なことに M 中隊の皆さんの、スーツケースなどの託送荷物だけは予定通りの列車に積み込まれてしまったようなのです。



八方ふさがりの中で、 M 中隊がホテルに舞い戻ってしまいました。

新米ガイドが泣きそうな顔でバスから降りてきます。



この時の M 中隊の皆さんの反応は、予想以上に激しいものでした。

まぁ無理からぬことではあります。

これで私が深々と頭を下げ、今晩はこちらのホテルをご用意しております、皆さんのお荷物はすでにお部屋に入れてあります、明日からのスケジュールはこのようにしてみましたがいかがでしょうか、と矢継ぎ早に対応していれば少しは怒りも収まったのでしょうが、なにひとつできていない状態だったわけですしネ。

さすがに罵詈雑言とまではいきませんが、それに近い言葉を浴びせられました。



しまいには

「明日、日本に帰る」

と言い出す人もでる始末。



予定では夕飯は列車内で取ることになっていたため、とりあえずレストランに一行を案内、まずは食事をしてもらうことにしました。



私だって考えて、行動する時間が必要ですから、そうそうお客さんにへばりついて謝ってばかりもいられません。

改めて現地スタッフに檄を飛ばし、列車とホテルの確保、そして託送荷物の行方を追わせました。

結果、列車は何とか翌日のものが取れ、ホテルもこの日の深夜にチェックイン予定であったロシア人一行の部屋を横取り、スケジュールも組み直せました。



あとは託送荷物です。

本当に列車に積み込まれてしまったのなら、もう為す術はありません。

出迎える予定の現地旅行社に頼んで引き取ってもらい、 M 中隊の皆さんが到着するまで保管してもらうより方法がありませんが、ほんとうにそうか? 

私は未だに荷物はハルビン駅のクロークかどこかに残されているような気がしてなりませんでした。



そこで現地スタッフの一人に事情を話すと、私が行きましょう、という返事。

あなた(私のことです)はここに残ってお客さんと一緒にいてください、と言う。

確かに私も H 中隊の皆さんと数時間後には出発しなければならないわけで、そうそううろうろもできないので申し出を受けることにしました。

スタッフの彼はドライバーを連れ、駅へ向かおうとしています。その時、彼のしゃべる早口の中国語が私の耳に飛び込んできました。



「あの日本人がうるさいからよ、ちょっとそこらをひとまわりしてくれよ。それでやっぱり荷物はありませんでしたって、言えばいいからさ」



生来温厚な私ではありますが、この時ばかりはそいつの襟髪ひっつかんで締め上げ、

「俺が行く。てめえはここで俺が帰るまで待ってろ」

とか、何とか、そんなことを言ったような記憶があります(笑)



ハルビン駅に到着。

事情を話し託送荷物の保管庫に入れてくれるように頼み込むものの、まずは拒否。

あーでもない、こーでもないと理屈を並べ、やっと許可は得たものの、今度は保管庫の鍵がない、担当者が持って帰ってしまった、というお決まりのことば。

それなら鍵は弁償するから無理矢理こじ開ける、と車からスパナやらペンチやらを持ってくると、ちょうど今担当者と連絡が取れました、今こちらに向かっています、と、これまた予想通りのお返事。



無事、鍵を開け中に入りました。

すぐに目に入ったのが、当時私が勤めていた旅行会社の色鮮やかな荷札でした。



駅員曰く、取りに来ないのでこのまま保管していた、とのこと。

荷物の個数を数え、すべてあることを確認し、ホテルに持って帰りました。



M 中隊の皆さんの部屋に持っていくと、やけ酒でも飲んでいたのでしょうか、全員が車座になって酒瓶やらが散乱しています。

「うわ、まずい時に来ちゃったな…」

と思いましたが、荷物がみつかり、持ってきた旨を告げると、荷物はすっかりあきらめていたのでしょう、思わぬ荷物の出現に歓声があがり、特に奥様たちからは一際大きな声があがりました。

そして M 中隊の団長さんから、



「もう今までのことは忘れる水を飲みましたので、我々の気持ちはもとのままです。あなたの誠意に感じ入りました。ご苦労様でした。一杯飲ってください」



と。

うれしかったですね。

これは本当にうれしかったです。



そして一番私のことを非難していたお客さんから笑顔で日本酒をつがれ、一気に酒を飲み干しました。

しかし酔っぱらってもいられません。

私が同行する H 中隊の出発時間が迫っているからです。

私は合流地での再会を約し、 H 中隊と皆さんと駅へ向かいました。



故地へ
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合流地は吉林省 D 市。

そこからバスで 30 分ほど走ったところにある D 鎮という小さな集落が目的地です。

M 中隊の皆さんより一足早く D 市に着いた私と H 中隊の皆さん。

私はホテルの玄関で M 中隊を乗せたバスが到着するのを待ちました。



待つことしばし、にこにこと脳天気な笑顔を浮かべた新米ガイドが先にバスから降り、 M 中隊の皆さんも降りてきました。



入植地では旧兵舎跡や当時使っていた井戸が今も使われていたことなどを伺い、まずは良い旅であったことを告げられました。

その日の夕食は、いよいよ和解の日を翌日に控え、 M 中隊も H 中隊もにこやかにテーブルを囲み、それぞれの入植地での訪問の成果や、当時の思いで話に花が咲きました。



翌朝。

バスは早朝の D 市を後にし、 D 鎮へと向かいます。

昨日の雰囲気そのままに、バスの中は和気藹々のムードにあふれ、やがてバスは D 鎮に到着しました。

D 鎮では鎮政府(村役場)の人と、残留孤児のひとりであり日本国籍が確認されながらも、私の生活の場はもはや中国だ、と帰国をしないで D 鎮にとどまっている日本人女性 N さんが迎えてくれました。



半世紀近くが過ぎ去った中、青春の痕跡をさがす時間が始まりました。



「おい、あれは兵舎じゃないか」

「そうだ、するとこっちに本部があったはずだが…」

「いや、あれが兵舎なら本部は向こうだ。そっちにあるのは作業場だろう」



皆、記憶の糸をたぐり寄せるように、地面に地図を書いたり、この旅行に参加できなかった仲間から託されたメモなどを頼りに、当時の面影を残すものをひとつでも探し当てようと懸命です。

村の老人たちにたずねてみたり、地元の N さんから変遷の様子を聞いたりする中で、ぽつぽつと当時の建物らしきものが見つかってきました。



感無量なのでしょう。

全員ことばもなく立ち尽くし、ただただ吹く風に身を任せているだけでした。



そしてふたつの中隊を分けていた線路跡が見つかりました。

すでに路線は廃止され、線路もなくなっていましたが、草むらの中、一条に走る線はすぐにそれとわかるものでした。

どちらからともなく、互いの入植地があった方に別れ、線路跡を隔てて両中隊が整列しました。

背筋を伸ばし、直立不動のままで整列したその姿は、まさに純粋な使命感に燃えた、当時の少年の姿そのものです。



H 中隊の団長があふれ出る涙を抑えつつ、絞り出すように口を開きました。



「 M 中隊の衆、すまんかった」



この一言を言うために、実に 50 年という長き歳月が必要でした。



H 中隊も、 M 中隊も目頭を抑えうつむいていましたが、やがてそれは全員の慟哭へと変わっていきました。

団長同士が線路越しに手を差し伸べ、たがいに握手を交わしたのを皮切りに、全員がそれぞれと握手をし、すまなかった、すまなかったと繰り返していました。

その様子から H 中隊が加害者側であり、 M 中隊に被害者が多かったことがわかりましたが、 M 中隊の皆さんもただただ涙を流しながらうなづき、亡き戦友の名を呼ぶのみでした。



慰霊祭が始まりました。

携えてきた日本酒やたばこ、お菓子や線香、 D 市で調達した生花を供え、ひとりひとりがうずくまるように線香を手向けると、それまで穏やかに吹いていた風が、まるで戦友の魂をここに連れ戻そうかとするように、強く吹きはじめました。



線路の土を思い思いに袋につめ、 50 年間思い続けてきた慰霊祭が終りを告げました。

皆さんの顔から、心残りであったことをやっと成し遂げたという思いがうかがえ、その日の夕食は互いに酒を酌み交わし、 50 年間のわだかまりが雲散霧消したような、そんなひとときでした。



私は日本人です
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翌早朝、私の部屋の電話が鳴りました。

出てみると、お客さんからです。

男性の中国人が部屋にたずねて来たが、日本語がまるでしゃべれないので、なんだかさっぱりわからん、ちょっと部屋に来てくれないか、というものでした。



部屋に行くと、ちょうどお客さんと同年代の貧相なおじさんがベッドの端にちょこんと座っています。

中国語で話しかけると、とたんに目を輝かせ、堰を切ったようにしゃべり始めました。



「私は日本人だ。戦争で取り残された残留孤児なのだ。日本人が来ると聞いて、矢も立てもたまらずこうしてやってきてしまった」



この当時から孤児を名乗るニセ残留孤児はたくさんいましたが、この人は目に涙をため、まなざしは真剣そのものです。



ふと足元を見ると、履き古した革靴がきちんと揃えて置かれていました。

靴を履いてください、と私が言うと、いや、私の靴は汚れているから、と履こうとしません。



欧米人や中国人はホテルの部屋では決して靴を脱ぎません。

日本人は割合すぐに素足になってしまいますが (^^;

もちろん、このことだけで断定することなどできませんが、私には本当の残留孤児のように思えました。



このおじさん、名前を F さんといい、詳しい来歴は記憶にありませんが、とにかくソ連侵攻の混乱の中で両親からはぐれてしまい、ここの中国人養父母に育てられた、ということでした。

F さん自身、何度も厚生省や北京の日本大使館に日本への帰国を訴え続けましたが、期待していたような返答を得ることはできず、今日に至ってしまったとのこと。



お客さんたちも、一歩間違えば自分たちも同じような境遇になりかねなかっただけに、真剣に F さんの訴えに耳を傾けていましたが、自分たちが力を貸すにはあまりに問題は大きく、それだけに軽々しい返事はできません。

F さんも、この人たちに自分の帰国に尽力してもらおう、という気持ちはなく、ただ日本人と話がしたかった、日本人に会いたかった、そして自分のような同胞がいることを知ってもらいたかったと涙ながらに話しました。

そしてお客さんたちの申し出で、この日は F さんも皆さんと行を共にすることになりました。



その日一日、私は徒然なるままに F さんと話をしました。

お客さんとの会話には通訳が必要ですが、下手ながらも多少の中国語をしゃべる私に、 F さんは滔々と今までのことを話し、私はそんな F さんに大きく心を動かされました。



できることであれば、私も F さんのために何かしたいと思いましたが、やはり軽々に動くことは好ましくありません。

私は名刺に自宅の住所と電話番号を記して F さんに渡しました。

もし日本に戻ることができたらぜひ連絡をください、と F さんに言うと、ありがとう、ありがとうと何回もお礼を言い、きちんと自分の財布にしまいました。



重い旅が終わりました。

それから何回となく満州開拓団のツアーには同行しましたが、これほど重い旅を経験したことはありません。

ご縁があったのか、 H 中隊の皆さんとは、それから数年後にもう一度ご一緒する機会がありました。



一本の電話
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私は仕事の合間を見て、厚生省中国残留孤児問題等支援室をたずね、 D 鎮で会った F さんのことを話して、率直に何か対策はないものかたずねてみましたが、答えはやはりつれないものでした。

残留孤児を名乗り、何とか豊かな日本に行こうと画策する中国人が後を絶たず、政府としては身元の確認によりいっそう慎重にならざるを得ない、と。



厚生省の言い分は十分に理解できますが、戦後 50 年余りが過ぎようとしている中、いったいどれほどの孤児たちが、その身元をはっきりと証明できると言うのでしょうか。

私は厚生省の関係機関に行き、現状を聞いたこと、現時点では帰国の可能性は皆無ではないにしろ、非常に難しいと思わざるを得ないこと、残念だが私のできることはここまである旨を記した手紙を送りました。



F さんから返事がきました。

縷縷、謝意が述べられていましたが、もう私も若くはない、いったいいつまで待てばいいのか、日本人である私をなぜ日本政府は救ってくれないのか、と苦渋に満ちた文面であり、正直、私には励ます言葉さえ見つからず、ただただ希望を捨てずに、としか返事が書けませんでした。

それから何回か手紙のやりとりが続きましたが、再び D 鎮を訪れるチャンスはめぐってこず、いつしか手紙のやりとりも絶えてしまいました。



この時の添乗から早いもので 15 年余りが過ぎていきました。

私は当時勤めていた旅行会社から現在の会社へ転職しましたが、 H 中隊の皆さんとは、それからもおつきあいが続き、一度は A 県にご招待いただき、過分な饗応をいただきました。



ある日、妻より

「たどたどしい日本語で電話があった、電話番号を言っていたけど」

と言われ、訝しく思いながらもその電話番号に電話をしてみたところ、思いがけないことに、まったく思いがけないことに電話の主は F さんでした。



2 年前にやっと日本人であることが認められ、永住帰国したとのこと。

すぐに連絡をしたかったが、私の名刺や手紙を中国に置いてきてしまい、前回戻った時にやっと見つけて電話をしたのだ、と話してくれました。



よく電話をくれたものだと、その時はまったくうれしかったですね。

近いうちに遊びに来てくれ、と現在の住所を聞くと、何と私が以前住んでいた街のすぐそばであり、私もよく知っているところでした。

やはりこれも何かの縁なのでしょうか。

なかなか時間が取れず、まだおじゃまはしていませんが、近いうちに会いに行こうと思っています。



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文中、幾度となく 「満州」 という語句を使いましたが、もちろん現在は使われていません。

現在は 「旧満州」 と表記するのが一般的ですが、ここでは敢えて 「満州」 と表記しました。もちろん何ら他意はないことを付け加えておきます。
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